草刈正雄さんのファミリーヒストリー

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2023年8月、俳優・草刈正雄さんのファミリーヒストリーが放送されていました。

生まれた時から母と二人だった草刈正雄。父は日本に駐留したアメリカ兵だが顔も知らなかった。母は「朝鮮戦争で死んだ、写真は焼いた」と多くを語らず死去。制作班は正雄の記憶にあった「ロバートトーラ」という人物を全米で探すが調査は難航を極める。半年後ようやく親族が判明。なんと父は朝鮮戦争から生還していた。父の容姿や性格、母との出会いも明らかに。「なぜ父は母のもとを去ったのか」父の姉が70年ごしの秘密を告白。

  • 2023年12月29日:ページ末に「草刈正雄特別編〜アメリカへ 決意の旅路〜」を追加
  • 2023年8月15日:初稿
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目次

草刈さんというと今や押しも押されぬベテラン俳優で、NHK大河ドラマにも様々な役柄で何度も出演されている俳優です。その外見からわかるようにハーフのお生まれなのですが、お母様からも父の情報をほとんど聞いていないという厳しい状況から調査は開始されました。

※母のスエ子さんは2010年に他界されています。

手がかりは

  • 「ロバート・トーラ」という名前だけでスペルはわからず
  • 母は「朝鮮戦争で死んだ」と語っていた
  • 写真は全部燃やしたと聞かされていた
  • 父の父、つまり草刈さんの父方のおじいさんは、アメリカで郵便局員をしていたという話を聞いた記憶がある

だけ。

この少ない手がかりを元に、去年2022年6月からアメリカでの調査が開始されました。

 

しかし空軍か陸軍かもわからず、ミリタリーレコード(軍歴証明書)からも辿ることが出来ない。そこでまずArchives.comを使って「ロバート・トーラ」なる人物の地道な調査が始まった。「トーラ」姓で想定されたスペルは全12パターン、8,827件が該当しました。これを生年、父(つまり祖父)の職業などをヒントに、一件一件絞り込みを行います。その上で該当者に個別に連絡を取って確認を行うという、まさに雲をつかむような調査が始まりました。

 

同時に日本でも、母方草刈家の調査も始まりました。

母方:草刈家

まず母方から見ていきましょう。母方のルーツは福岡県行橋市にあります。

6代前:利久蔵

古い戸籍によると江戸後期の6代前の先祖は草刈利久蔵(りくぞう)。

5代前の先祖もその名前・利久蔵を引き継ぎます。文化12年(1815年)生まれ。

4代前:勝蔵

その長男が松蔵(まつぞう)、次男(草刈さんの4代前の祖先)が勝蔵(かつぞう)で弘化4年(1847年)生まれ。

当時行橋は、福岡藩で小倉の次に位置する大きな町として、物資が大坂や京都にも運ばれ、賑わっていたと言います。

草刈家は、米や菜種を生産していた農家の一つでした。

曽祖父(3代前):髙蔵

明治8年(1875年)に曽祖父・髙蔵(たかぞう)が誕生。長じて髙蔵は農業ではなく商人の道を選びます。自宅で、天ぷら・かまぼこ製造業兼小売店を営みました。当時、かまぼこは高級料理であり、祝いの席には欠かせないものだったと言います。タラのすり身を揚げた天ぷらは近所でも評判でした。

しかし大正4年(1915年)、髙蔵は39歳で急死します。

祖母:イシ

店は続かず草刈家は生活苦に陥ります。

口減らしもあり、次女イシは17歳で嫁入りします。

昭和7年(1932年)に生まれた長女がスエ子、のちの草刈さんの母です。

しかし父親は酒癖と女癖が悪く、幼いスエ子は山道を歩いて使いに行かされる日々だったといいます。間もなく両親は離婚し、7歳だったスエ子は奉公に出されます。

母:スエ子

それでも必死に働き孤独に耐え続けたスエ子。18歳の時努力が報われ ある職業に就きます。

ローカルバスの車掌(現在の西日本鉄道)でした。

切符の販売、ドアの開閉、車内清掃などを笑顔で行う路線バスの車掌は、(あまり職業選択の自由がなかった)当時、女性に人気の仕事でした。こうしてスエ子はようやく日の当たる生活を手にしたのです。

 

 

父方

続いて父方です。

アメリカでの調査開始から3ヶ月間、調査は行き詰まっていました。

そこで取材班は「ロバート・トーラ」ではなく「ロバート・トーラー」ではないかと考え直します。ただしこちらの該当件数は18万件あまりに膨れ上がります。

一方日本でも、過去の草刈さんのインタビュー記事を洗い直します。すると昭和51年(1976年)の記事で「出身地はアメリカのノースカロライナ」と答えていたことがわかりました。

この情報を元に、ノースカロライナ州に絞ってさらに調査を続行します。※画面では81,153件というレコード数が表示されていました。

去年(2022年)10月連絡した一人から、驚くべき返信が届きます。それによれば、「ロバート・H・トーラー」は手紙の主の叔父であり、連絡先の相手もまた同時にファミリーヒストリーの謎が解けたのだと言います。どういうことでしょうか、順番に見ていきます。

 

手紙の主、ジェイ・カラハムさんは元陸軍士官。97歳の母からある話を聞いていたと言います。かつてジェイさんは、母ジャニタさんから「あなたには日本で暮らす”いとこ”がいるが、どう暮らしているか、生きているのかすらわからない」と聞かされていたそうです。

ジェイ・カラハムさんによれば、祖父ゼブロン(Zeb Vance Tolar)氏の職業は郵便局員だと言います。ゼブロンはその妻アメリアとの間に三男四女の7人の子を儲けており、その四女ジャニタさんの息子がジェイ・カラハムさんにあたるのだと言います。※つまりジェイ・カラハムさんが草刈さんのいとこの一人

そしてジャニタさんの弟が「ロバート・ハンター・トーラー」。これが草刈さんの父です。

このロバートさんは10年前に亡くなっていました。草刈さんが聞かされていた情報とは違い朝鮮戦争では死んでいないといいます。

一部の証言が食い違っていたため、念のために2022年11月にDNA検査による家族判定を行います。4週間後ジェイさんのもとに結果が届きました。※番組では、事前に万一のことを考えて草刈さんのDNA情報を預かっていたと説明されていました。

4週間後結果が届きます。97%の確率でいとこだという結果でした。

こうして、初めて草刈正雄さんの父方の親族が見つかったのです。

 

ここでジェイ・カラハムさんの母ジャニタ・カラハムさんを訪ねます。草刈さんの父・ロバートの姉で、草刈さんの伯母にあたります。

そのお宅には、草刈さんの父ロバート・ハンター・トーラーの20代の写真もありました。日本では空軍に所属していたと言います。

※草刈さんの表情はワイプでは変わらないように見えましたが、メインカメラに映るとその目には涙が溢れており、司会の今田耕司から話を振られてもしばらく言葉を発することが出来ないでいました。

ジャニタさんはこれまで誰にも弟のことを話せずに来たが、人生の終りを迎え息子のジェイ・カラハムさんにだけその甥の話をしていたのです。

 

さて草刈さんの父・ロバートはどんな人物だったのか。一族のふるさと、ノースカロライナ州のター・ヒールに向かいます。

曽祖父

草刈さんの曽祖父には8人の兄がおり、その墓碑には「9人兄弟に捧げる。ロバート&フランシス・トーラーの息子たち」と刻まれていました。兄弟はみんな軍人となりました。南北戦争(1861-1865年)で南軍に志願したと言います。

 

祖父・ゼブロン・トーラー

祖父・ゼブロン・トーラーは地域に愛される郵便局員で、貧しい人には度々お金を恵んでいたと言います。

しかし50代のある時、ペラグラ(ナイアシン欠乏症)という病に襲われます。消化器官がただれ、脳の機能不全に陥ることもある難病でした。

そして自宅への帰り道、自宅の400m手前で自分で自分を撃ったと言います。

それはロバート(H)が生まれる3ヶ月前のことだったと言います。優しさと繊細さが同居していたゼブロンは、痛みと絶望に耐えきれなかったのだと考えられます。

 

父・ロバート・H・トーラー

3か月後の昭和5年(1930年)2月23日にゼブロンの忘れ形見として生まれたのが、草刈さんの父であるロバート・トーラー。
ゼブロン亡きあとトーラー家は困窮したといいます。向かいにあったター・ヒール小学校の教師に部屋を貸すことで貧しくも生計を立てたと言います。

家計を助けるため、18歳でアメリカ空軍に入隊。トーラー家が誇りとする軍人になったのです。

国が保存するミリタリーパーソナルレコードを取り寄せてみると、身長193センチ、体重79キロ。当時日本の築城(ついき)空軍基地にいました。第一航空郵便隊第24分遣隊所属でした。

※築城基地は、福岡県築上郡築上町大字西八田に所在する現在の航空自衛隊の基地。昭和20年(1945年)9月から昭和32年(1957年)まで米軍に接収されていました。

当時18歳だったロバートの配属先は福岡の築城基地にあった第一航空郵便隊、第24分遣隊だったのです。当時米軍ではエアメールを大変重視しており、最前線の兵士にも母国アメリカからのエアメールを届けたといい、これは兵士の士気を高めることに大いに影響があったと言います。

1950年6月に勃発した朝鮮戦争では、福岡から韓国・金浦空軍基地へ派遣されます。

ロバートは弾が飛び交う最前線へも出向き手紙を渡して回りまわったといいます。

米軍公式資料によれば、第24分遣隊は1951年1月3日に日本の築城空軍基地に帰還したといいます。ロバートも無事でした。基地には、常に数百人の兵士や関係者が駐留しており、ロバートは戦地と母国の中継地である築城で郵便の仕分け作業を担います。

そして街へ出かけた時一人の女性と出会うのです。

毎晩のように築城の街へ繰り出し、日本人ホステスと恋仲になっていく築城空軍基地のアメリカ兵たち。一方ロバートは、全く違う形で一人の女性と出会います。それが草刈さんの母・スエ子でした。

当時街を流れる川に細い一本橋がかかっており、すれ違いできない橋なので米兵と譲り合ったという話を、草刈さんは母から聞いたことがあると言います。

当時スエ子は19歳。努力の末にバスの車掌という職を手にし生き生きと働いていました。行橋を起点に南に向かう路線を担当。ロバートのいた築城は、ちょうどバスの休憩ポイントでした。

街での偶然の出会いから交際がスタート。間もなく2人は、基地の外にアパートを借り同棲を始めます。

当時のロバートの記録には、「1951年4月13日に第一航空郵便隊を除隊。その翌日に再入隊」しています。これは兵隊の任期が切れたためで、これを名誉除隊と呼び、本国アメリカに戻ってもよし、兵士を続けるなら再入隊するという仕組みでした。ロバートは築城に残りたかったので再入隊を選んだということになります。理由は明らかではありませんが、スエ子さんとの生活が始まっていたのではないかと推測されていました。

その後ロバートは定期異動で東京にある極東空軍羽田基地へ。スエ子も大好きだったバスの車掌を辞めて都内で2人暮らしを始めます。

このころ新しい命を授かったスエ子は幸せな将来を思い描いていました。その頃スエ子は、アメリカに渡るつもりであったと言います。当時のロバートへの思いを後に草刈さんに「読書家で、賢くて、ハンサムであった」と語っていたと言います。

ところが2人はその後、別々の人生を歩むことになります。

 

わかれた後のスエ子

その後、スエ子は築城に戻っていました。

行橋に暮らす綿井さんという方の姉は、東京から戻ったばかりのかつての同級生スエ子と、働いていた青果店でばったり出会い、思い詰めた様子だったスエ子を自宅に招き入れたといいます。スエ子は2階の一間に匿ってもらい、そこで正雄を出産します。

昭和27年(1952年)9月5日、草刈正雄さん誕生。スエ子は家族にも内緒で正雄を出産したのです。理由は後に出てきます。

 

わかれた後のロバート

一方父であるロバートはどこへ行ったのか。

彼は将校になるための幹部候補生学校に行くことになり、陸軍に編入されたといいます。そして学校の方針により、日本からアメリカに戻ったと言います。アメリカに戻ったロバートは、日本での顛末を家族の誰にも離さず、床に座り込んで手を頭にやったまま塞ぎ込んでいたと言います。

軍人という職業を誇りとし私生活の規律も厳しかったトーラー家。父ゼブロンに似て繊細だったロバートは日本人女性との間に子どもができたことを言いだせずうなだれていました。

姉ジャニタさんはふさぎ込む弟を心配し、「陸軍に異動したのだから(勤務地である)ドイツに生きなさい。行くべきだ」と言ったのだと言います。結局ロバートは、覚悟を持てぬまま姉の勧めに従い西ドイツ(当時)へ旅立ったのです。

そのころ渡米も意識していたスエ子はロバートから聞いていた住所に手紙を出します。受け取ったのはロバートの母と姉たちでした。送られてきた子供(草刈さん)の写真を見て、ロバートの子供だと確信したと言います。

しかしこの時既にロバートは西ドイツで従軍。母と2人の姉は生活も苦しくなすすべがありませんでした。姉ジャニタさんは、当時敵国のままであった(GHQ統治下の)日本に渡ることもできず、母子の無事を祈ることしか出来なかったと言います。「(私が)弟に西ドイツ行きを促さなければ、親子3人の距離は再び近づいたかもしれない」。ジャニタさんはその後ずっと後悔し続けてきました。

スエ子に返事を書いたのはロバートの姉マーガレットでした。僅かなお金を同封し、事実を伝えました。受け取ったスエ子は全てを悟り、小さな正雄と2人で生きる覚悟を決めたのです。

当時は外国人の親を持つ子どもやその家族には偏見があった時代(ハーフという言葉も使われず”あいのこ”などと呼ばれていたと草刈さん自身も語る)で、スエ子は自分のせいで親や親戚に迷惑がかかることを心配していました。いとこの一人は、当時表立っては援助できなかったと証言します。※こういう背景から、妊娠・出産自体を隠そうとしたのだと思われます。

 

その後の母子

小倉での母子生活

やがてスエ子は、ふるさとを離れてしがらみのない小倉へ向かいました。

草刈さんが幼少期を過ごした北九州市小倉。幼少期を過ごした間借りした家(大家)もまだ残っていました。母の帰りを一人で待つことも多かったといいます。

スエ子は慣れぬ町で朝から晩まで働き続けました。日中は日用品の卸売会社の倉庫で値札付け。残りの時間で家政婦の仕事を掛け持ちします。母の帰りが遅いときには、草刈さんは大家でごはんを一緒に食べたりしたと言います。

草刈さんは中学の頃には同級生とともに新聞配達を始めました。朝4時に起きて折込作業、5時から配達。普通の販売店では70~100部だったが、100~150部を配達したのだと言います。

中学校卒業後は、本の訪問販売やスナックなどで学費を稼ぎ定時制高校に通った草刈さん。

 

草刈さんモデルの世界へ

17歳の時、博多や東京のモデルクラブの目に留まり業界に飛び込みます。

何はなくともお金のためだったと言います。当時(新聞配達の)初任給が1万9千円、ところが東京のモデルクラブだと5万円くれるというのです。

そんな草刈さんを有名にしたのが大手化粧品会社のCMでした。当時の人気モデル団時朗さんの弟分としてデビューしました。※のちに円谷プロのウルトラシリーズ『帰ってきたウルトラマン』で主人公・郷秀樹を演じた人物。

日本人離れした顔だちも受け、たちまち売れっ子モデルになった正雄。少しでも楽をさせたいとすぐに母を東京へ呼び寄せました。その後は俳優にも挑戦。華のある演技とちゃめっ気で多くの人を魅了していきます。

NHK大河ドラマ『真田太平記』(1985年4月~1986年3月)では真田幸村役を演じて人気になります。※他にもNHK大河ドラマでは、『花の乱』、『義経』、『篤姫』、『江~姫たちの戦~』、『真田丸』に出演されています。「真田丸」では、かつて真田幸村役を演じた草刈さんが、今度は父親・真田昌幸役を演じたことも話題になりました。

ロバートの面影を受け継ぎ活躍する正雄の姿。母は少しずつ父ロバートの事を話し始めます。

どんなに苦しいときも決してロバートの悪口は言わなかったというスエ子は、平成22年(2010年)脳梗塞でこの世を去りました。享年78。

 

父ロバートのその後

アメリカ合衆国ノースカロライナ州のソールズベリー国立墓地には、草刈さんの父ロバート・トーラーが眠っています。空軍二等軍曹、退職前に一等軍曹になったと言います。2013年死去。妻ヘルガさんの骨も納められています。※ヘルガさんは1933年生まれ、2015年死去と刻まれていました

1953年、アメリカ陸軍の一員として西ドイツへ渡ったロバート。

その後ヘルガ・ラサートと結婚し除隊して、婦人服を販売する商売を始めます。7店舗を運営し、しばらくはうまくいっていたようですが、手広くやりすぎたのか最後は失敗したと言います。

別の商売を始めるも再起はかなわず、2013年がんのため亡くなりました。享年83。

最期まで日本での出来事を口にすることはなかったといいます。そんなロバートの秘密を抱え続けてきた姉のジャニタさんから、「正雄に渡してほしい」と取材班は一通の手紙を託されます。

手紙の日本語代読を聞いた草刈さんは、涙していました。

 

草刈さんのいとこジェイ・カラハムさんは、母ジャニタさんの自宅の家族や親族の写真を飾るコーナーに、インターネットで探した草刈さんの写真を加えました。

スタジオ収録のあと草刈正雄さんは一つの大きな決断を下しました。7月末、草刈さんは急きょ渡米。しかし割り切れない気持ちも抱えていました。「父が自分と母のもとを去った」という事実。そのしこりが消えたわけではありませんでした。それでも、手紙を読むと伝わってきたと話します。

 

草刈正雄さんのファミリーヒストリー。時代と運命に翻弄された家族たちが、海を越え70年ぶりにつながりました。

※草刈さんが訪米した際の映像は、後日2023年12月に「草刈正雄 アメリカ訪問・特別編」として放送予定だそうです。

 

 

続編:草刈正雄特別編〜アメリカへ 決意の旅路〜

2023年12月29日、「草刈正雄特別編〜アメリカへ 決意の旅路〜」と題したアメリカ訪問編がNHKで放送されました。

飛行機が苦手だけど伯母ジャニタ・カラハムさんからの手紙を読んでどうしても訪問しなきゃいけないと決意した草刈さんでしたが、日本からシカゴを経由してノース・カロライナ州のリーンズボロへの飛行機の旅は実に15時間におよびました。緊張していたため疲れているにも関わらず機中では一睡もできなかったと言います。

迎え入れたジェイ・カラハムさんは、この日のためにある準備をしていたと言います。NHK大河ドラマ「真田丸」のDVDを注文し、夫婦で毎晩3話ずつ視聴して全部見終わったのだと言います。草刈さんは今まで父親役に対して、実の父親の記憶もないのに出演するのは…などと言い訳をしてきたと言いますが、真田丸では主人公・真田幸村(演:堺雅人さん)の父・真田昌幸役を好演し評価されていました。

また伯母ジャニタ・カラハムさんは家の門扉に日本の国旗を用意して待っていました。これは日米国境と、70年という長い歴史を超えて、今私達は「ひとつの家族」になったのだということを表しているのだと言います。

 

実はアメリカ訪問した2023年は草刈さんの母・スエ子さんの13回忌。また7月は亡くなった月でもあり、亡き母がこうしてアメリカの家族との導きをしてくれたのではないかと語る草刈さん。

草刈さんが帰り際に伯母ジャニタ・カラハムさんに手渡してきた手紙には、(ふさぎ込む弟を元気づけるためにドイツへと送り出したことで、結果として母子と弟との出会いを阻害することになってしまった事に対して)70年間、罪の意識を感じ続けてきたジャニタさんへ正雄さんの本音がつづられていました。

母が亡くなり 番組に出演するべきかどうか 悩んでいました

でもどうしても父のことが知りたかった 写真でいいから顔が見たかった

そして あなたたち家族のことが知りたかった

VTRを見たときには言葉を失いました

でも あなたたち家族に会えて 本当にうれしかった

いつまでもお体を大切に

あなたの甥 正雄より

※草刈さんは英文で手紙を用意しており、番組ではその翻訳のナレーションが流れていました。

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