石川佳純さんのファミリーヒストリー

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2024年2月、卓球のオリンピックメダリスト・石川佳純さんのファミリーヒストリーが放送されていました。

卓球のオリンピックメダリスト・石川佳純さん。母方は福岡の武士の家系で、大河ドラマにもなった黒田官兵衛に忠義を尽くした家臣。祖父は柔道の達人だった。一方、父方の先祖は島根で、娘の死や災害、難病など数々の苦難を「天性の明るさ」で乗り越えてきた。父・公久のもつ「苦難に負けない明るさ」、母・久美のもつ「類いまれな勝負師の強さ」、それぞれの長所を受け継いだ娘・佳純は卓球の道を極め、世界の舞台で輝いた。

 

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目次

2012年ロンドンオリンピックで銀、2016年リオデジャネイロオリンピックで銅、2020年東京オリンピックで銀。3大会連続でメダルを獲得し日本卓球女子の歴史を切り開いてきた石川佳純さん。

石川佳純さんは、父・公久(きみひさ)さん、母・久美(くみ)さん、妹・梨良(りら)さんの4人家族です。まずは山口県山口市にある実家を訪ねます。

母方・小川家

母・久美さんは国体に三度出場した元・卓球選手で、自宅で卓球教室を開いています。

旧姓は小川。母・久美さんのいとこ小川正勝さんを訪ねます。※石川さんの祖父が、曽祖父・虎五郎の四男にあたり、正勝さんの父が三男です。正勝さんの家には戦国時代から始まる家系図が伝わっていました。

黒田家臣・小川家

家系図で辿れる先祖は小川氏稙(小川左近大夫、初め孫七郎。半左衛門。小川丹後守義裕の次男、住江州と読めます)。その子の氏豊(与三左衛門)は黒田官兵衛孝高に仕えたとあります。

福岡県朝倉市の朝倉市秋月博物館にはその関係を証明する資料があります。黒田家家臣の系譜「秋府諸士系譜」の中に、記述がありました。それによれば小川家は黒田官兵衛の父・職隆の代から黒田家に仕えていたと言います。孝高に仕えた後は、関ヶ原の戦いをはじめとする数々の戦いで功名をあげたといいます。特に射術に長じており、弓頭に抜擢されていました。

荒木村重が織田信長に反旗を翻した際、有岡城に説得に向かった官兵衛は捕らえられ幽閉されてしまいます。当主であった官兵衛の幽閉は1年半におよび、世継ぎである松寿丸(後の黒田長政)まで織田家に人質に出ていた黒田家は窮地に陥り(この時、信長は官兵衛が裏切ったと見て松寿丸の殺害を秀吉に命じたという)家臣の離反が相次ぎますが、ここで連署を認め黒田家への忠誠を誓った家臣たちが居ます。今に残る「黒田氏家臣連署起請文」の12名の家臣の中に、小川氏豊(与三左衛門)の名が載っています。

その後小川家は、勘兵衛の孫・黒田長興が起こした秋月藩の重臣として代々仕えます。

母・久美さんが見たという先祖の旗の絵も、秋月博物館に残っています。「嶋原陣図屏風 戦闘図」。そこには島原の乱の鎮圧軍として、戦場で旗を背負った小川家の先祖・小川左近右衛門が描かれていました。小川家は弓頭や鉄砲頭を務め、武勇に優れ戦の知略は高かったと言います。

曽祖父・小川虎五郎(とらごろう)

それから250年あまり、父・小川峯三郎、母ツルの間に生まれたのが石川さんの曽祖父にあたる小川虎五郎(次男)です。

小川峯三郎──虎五郎──末弘──久美──石川佳純

堂々とした雰囲気の人物で、従業員数百人が働いていた明治紡績 行橋工場の工場長を務めていました。昭和4年(1929年)に世界恐慌が起きると、虎五郎は紡績業に見切りをつけて福岡市内に土地を購入し、酪農業を始めます。

福岡県の「福岡県酪農史」に次のような記述があります。

一部ではすでに戦前から牛乳と同じように販売されていたようで、その変遷を見ると、昭和11年(1936年)4月には福岡市箱崎町米一丸に晴光舎山羊牧場(小川虎五郎)があって30頭(当初)から100頭(戦後)の山羊を飼育して生産乳の処理販売を行ったといわれ、この間飼料の配給統制等のため圏内の同業者25名(福岡北九州地区12名、嘉穂地区8名、豊前地区3名、直方地区2名)で福岡県山羊乳営業組合(小川虎五郎)を組織して飼料の配給業務等を行い

当時供給が十分ではなかった牛乳に変わるものとして、ヤギ乳に目をつけたのです。

小川虎五郎は石川さんの母方の曾祖母となるユウと結婚しています。

祖父・小川末弘(すえひろ)

昭和4年(1929年)生まれの四男・末弘も幼い頃から牧場を手伝ったと言います。

小学校高学年になった末弘は柔道で心身を鍛えようと、隻流館(福岡市)の門をたたきます。江戸時代から武士の子弟が武術を学んだ場所といいます。厳しい稽古で知られ、当時子どもの入門は断っていました。それでも末弘は諦めず、土下座して入門させてもらったという。

昭和19年(1944年)太平洋戦争が激しさを増す中、14歳の少年だった末弘は、海軍に志願します。しかし戦地に出ること無く翌年終戦を迎えました。

幸い実家のヤギ牧場は無事だったため、末弘は再び家業の担い手となります。また再び柔道にも打ち込みます。内股を得意としたと言います。隻流館には、同館伝統の千本取りを達成した末弘の名札が掲げられています。この千本取りとは、50人を相手に1日で1000回投げることで達成できたという猛者の証です。末弘が千本取りに挑んだのは昭和24年(1949年)19歳の時のことだと言います。

その4年後、末弘は昭和28年(1953年)9月29日に行われた第2回全国青年大会において、柔道団体戦で準優勝を成し遂げています。

しかしこうした話を末弘は家族にもほとんどしなかったと言います。「自慢するな、おごるな」というのが末弘の教えだったと言います。

昭和30年(1955年)ごろになるとヤギ乳の需要は少なくなり、小川家は牛乳の製造販売店に変わります。毎朝3時過ぎに起きて、(配達から)帰ってきて、他の仕事をしてという流れを一日たりとも休まず、遅れることもなく続けたと言います。

昭和33年(1958年)末弘は、小田圭子(おだ けいこ)と結婚します。

母・小川久美(くみ)

5年後の昭和38年(1963年)、石川さんの母となる次女・久美(くみ)さんが誕生します。

父から身体能力の高さを受け継いだ久美は、いとこが正月に集まって男の子と相撲をとっても久美が強かったと言います。小学校時代はマラソンでもずっと一番だったそうです。

中学で卓球を始めると、部活の後さらに1時間くらいバスに乗って別の卓球スクールにも通います。

卓球にかける情熱の強さは並大抵ではなく、ある日熱を出して学校を休んだ久美は、卓球部に顔を出したのだという。

高校2年と3年でインターハイに出場し、その後スポーツ推薦で地元の福岡大学に入ります。そこで出会った新入生(同級生)が石川さんの父・公久さんだったのです。

大学を卒業後、大手自動車メーカーの実業団に入り、卓球を続けます。全国大会でベスト8に進むなど活躍しました。

 

父方・石川家

続いて父方を見ていきましょう。

石川善五郎──晋──四郎──公久──石川佳純

父方・石川家のルーツは島根県松江市にあります。

松江市にある父・公久さんの実家を訪ねます。現在は公久さんの母(石川さんの祖母)喬子(きょうこ)さんと、公久さんの妹(同伯母)の恵子(けいこ)さんが暮らしています。

石川家の11代前の先祖・石川勘左衛門は、江戸時代の中頃、寛延3年(1750年)に石川家の菩提寺となる大満寺(島根県大田市)を開いた人物(大満寺開基主)です。

現在、大満寺は無住寺となっています。石見銀山の歴史をまとめた「新・石見銀山物語」(石村勝郎著)に石川家に関する記述があります。

その一つをあげると正徳年間に、山吹山のふもとの二ヶ所にあった吹屋(精錬所)の、灰拭き所役人だった石川勘左衛門の娘が美人だったため、ときの代官に目をつけられ、江戸の奥御殿の女中に推薦された。恋人があったこの娘は、これを拒むことができず、恋人とも離れられないと正徳元年七月二十日、若い命を断った。悲しんだ勘左衛門は役人をやめ、娘の墓のそばに庵(いほり)を建てて名を旅睡と改め、念仏三昧の生涯を贈ったという。

この庵が大満寺であるという。勘左衛門が娘・カヨの三回忌に作った阿弥陀如来像(出雲市阿弥陀寺蔵)が近くの寺に残っています。仏像の背面には、カヨの戒名が残されています(爲照誉清顔信女)。

高祖父・石川善五郎(ぜんごろう)

およそ150年が過ぎた明治初期、ある夢を抱いて上京した先祖が居ました。石川さんの高祖父・石川善五郎です。画家を目指していたのです。

居を構えたのが東京浅草三筋町(台東区三筋一丁目)。ここで作品の制作に没頭します。

明治17年(1884年)には国の展覧会である第二回内国絵画共進会にも出品しています。「山水草花 同 石川善五郎 號如僊」。

曽祖父・石川晋(すすむ)

そんな善五郎と妻・トラとの間に、明治18年(1885年)次男・晋(すすむ)が誕生します。

明治39年(1906年)、晋は21歳で製缶業を始めます。海苔や茶缶の缶屋をやっていたと言います。商売はうまく行っていたと言います

大正6年(1917年)に、同郷の岩谷カナ(いわたに かな)と結婚します。子宝にも恵まれました。

工場でも多くの職人を抱えるほど順調でしたが、大正12年(1923年)に起こった関東大震災で、浅草は一瞬にして瓦礫の山と化します。工場も被災し、晋は財産のほとんどを失ってしまいます。

そしてやむなく、松江にいる親族のもとに身を寄せます。しかしさらに晋は悪性のリュウマチを患い、半身不随になってしまうのです。

 

祖父・石川四郎(しろう)

ふさぎ込む家族を元気づけたのが、昭和6年(1931年)生まれの祖父・四郎でした。

兄弟の中で一番勉強は苦手でしたが、天性の明るさの持ち主でした。

四郎は父をなんとか元気づけようと、昭和22年(1947年)の昭和天皇の戦後巡幸において松江にも訪問されると聞いた四郎は、父を大八車に乗せ案内したといいます。

その後工業高校を卒業し、地元の広告代理店に営業マンとして就職します。営業マンとして非常に優秀で、当時の知り合いは、会社は四郎さんの売上で会社が持っていたのだといいます。

昭和38年(1963年)四郎は、親戚の紹介で園山喬子(そのやま きょうこ)さんと結婚します。

父・石川公久(きみひさ)

同年長男・公久が誕生します。石川さんの父です。

公久は幼い頃から体を動かすことが大好きだったと言います。

そんな公久が夢中になったのが卓球でした。始めてわずか1年で松江市の小学校卓球大会で優勝します。中学でも卓球に打ち込み、高校ではキャプテンとしてチームを率います。

その後、福岡大学に進学し、九州の強豪であった卓球部に入ります。そこで、石川さんの母となる久美と出会ったのです。

昭和61年(1986年)大学を卒業した公久は、父・四郎に憧れ広告代理店に就職します。

 

出会いから8年、平成元年(1989年)に2人は結婚し、2人は公久の転勤先である山口市で暮らし始めます。

石川佳純さん

平成5年(1993年)待望の長女が誕生。石川佳純さんです。

母の久美さんには一つの信念がありました。それは親から声をかけて誘うのではなく、娘の方から自発的に卓球を始めることを狙ったのです。スポーツである以上、行き詰まったり困難にぶつかったりした時に「ママがやれと言ったから」とか「元々はやりたくなかった」となってしまうため、本人が自分からやりたいと言い出すのを待っていたのだと言います。

小学1年生になったある日のこと、狙い通り佳純さんは自ら「ママ打たせて」と言ってきたのです。

練習を始めて3ヶ月、佳純は県大会8歳以下の部で、準優勝します。

娘の天性の才能を見出した父母は、平成13年(2001年)新築したマイホームの1階に、40畳の広さの卓球場を設けます。

めきめきと実力を延ばした佳純は、平成16年(2004年)の全日本選手権大会ホープスの部で優勝を勝ち取ります。こうしてオリンピック代表への道を歩み始めたのです。

2012年にはロンドンオリンピックに出場し、団体戦において日本卓球史上初となる銀メダルを獲得します。※団体戦は福原愛、平野早矢香、石川佳純の3人。個人戦でも日本勢史上最高の4位

 

関係者

番組には出てきませんでしたが、親戚関係のある人物が何人か公表されわかっています。

大叔父・石川武男

元岩手大学農学部学長・石川武男は大叔父にあたる人物。大正10年(1921年)生まれ、平成14年(2002年)没。出生地:島根県松江市。

※「大叔父」とのことなので、父方の祖父・石川四郎さんのお兄さんかと思われます。四郎さんは昭和6年(1931年)生まれなので年齢差は10歳あります。

HKT48豊永阿紀さん(母方のはとこ)

またHKT48の豊永阿紀さんははとこにあたるといいます。「卓球の石川佳純さんがお母さんのいとこの娘」と自ら語っているそうです。お母さんの小川久美さんの従姉妹にあたる方の娘が豊永阿紀さんのお母さんに当たるということになります。

【HKT48】あじたましゅまろ?橋本環奈と友達で深川舞子とマブダチ、岡本尚子と同じ劇団で親戚に卓球選手?謎多き4期生【豊永阿紀】 : 48ラジオトーク – AKBラジオまとめ

豊永:お友達じゃないんですけど卓球の石川佳純選手がはとこなんですよ。お母さん同士がいとこで、ひいおじいちゃんが同じなんです。

石川佳純さん はとこのHKT48・豊永阿紀との2ショットを披露 豊永「ようやく会えました」― スポニチ Sponichi Annex 芸能

「きょう、はとこの佳純ちゃんとようやく会えました」と記され、紺のジャケットに白のブラウスの石川さんと白のトップスにデニムのボトムス姿でピースサインをする豊永が笑顔で寄り添うショットとなっている。

母方の曽祖父・小川虎五郎さんで繋がるということですね。

NHKのキャスター・リポーター三上大進氏(父方のはとこ)

NHKのキャスター・リポーターである三上大進氏のお母さんが、石川佳純さんの父・石川公久さんといとこ関係にあたるそうです。つまり三上大進氏と石川佳純さんとは又従兄弟(=はとこ)関係になります。※表現は異なりますが、又従兄弟=はとこ=親同士がいとこ関係です。

石川佳純、よく似た“はとこ”の存在明かす「そっくりとよく言われますw」 友人も驚き「親戚かい! めっちゃ似てる!」(1/2 ページ) – ねとらぼ

父方の曽祖父・石川晋さんで繋がるということですね。

 

※岩谷直治氏との関係

けっきょく、(石川佳純さんの)曽祖父・石川晋さんが大正6年(1917年)に結婚した同郷の「岩谷カナ」さんが色々と憶測を呼んでいるようですが、そこから先の情報は見当たりません。岩谷カナさんが同郷(つまり島根県松江市か広げたとしても島根県)出身者以上の、例えば大田市の岩谷氏(岩谷直治氏あるいは岩谷九十老を含む)となんらかの関係があるかについては、資料が全く見つからないため、わかりません。

ましてや、関連して石川佳純さんとDAIGOさんとか親類だというのは眉唾物ではないかと思います。DAIGOさんのお父様は内藤武宣氏と言ってWikipediaにも載っている方です。そもそも福岡県のご出身です。あるいは義理(例えば叔父叔母の結婚相手のさらに義理)の関係でということはありえますが、その場合には「直系」などという言葉は明らかに間違っています。逆にこの上に3人の方(大叔父、はとこ2人)のお名前を上げていますが、この方たちとは間違いなく親類関係であることがわかります。(故人の大叔父を除いて)互いに顔見知りで互いに認めています。

※例えば有名なところでは、安倍晋三元総理とこれも元総理の細川護熙さんは「義理の親類関係」では繋がっていますが、恐らくご当人(細川氏)に尋ねても「そうらしいですね」としか言わないでしょう。具体的には細川護熙さんから見ると、弟(近衛忠輝)の奥様の弟である寬仁親王の奥様(麻生信子)の伯母(吉田桜子)の夫の従兄弟(岸信介)の孫という関係ですから、「他人」ではないけれども、「親類として会った」ことはないでしょう。我々一般人はこれを”閨閥”などと呼び興味半分で書き起こしますが、ご本人たちから見れば「そりゃ確かに繋がってるかも知れないけれども直接は知りません」と答えるようなことです。もっといえば未亡人である安倍昭恵さんも細川元総理と義理の関係になりますが、それを言えば細川元総理から森永創業家を辿って岡本太郎(芸術は爆発だ!の人で、1970年万博の太陽の塔設計者)まで辿ることも出来ます。もうここまで来ると御本人たちも呆れて「よく調べましたね(暇ですね)」としか言えないでしょう。自分を例にして考えるとわかるかと思いますが、血族の奥様や夫君のさらに先の親類の方とお会いしたり、その後何らかの関係を持つことは、大正・昭和初期頃まではあったかも知れませんが特に現代社会ではほぼ無くなっています(はっきり言えば他人)。よほど田舎の大家族で育った方なら本家・分家の関係でお付き合いすることがあって、その場合は4代・5代あるいはもっと前の兄弟姉妹の末裔とお会いすることがあるかも知れないですが、都会にお暮らしの家庭の場合、そういう付き合いもほぼ絶えているかと思います。ファミリーヒストリーを見ていても、3代前の子孫(つまりはとこ程度)でぎりぎりなんとか互いに反応する程度で、大抵は「NHKの取材で初めて(芸能人のあの人と)親類関係であったことを知りました」という反応になってます。芸能人ですらそうなのですから一般人でこの関係性になるとまずわかっていません。そういうものです。ただ言っておきますが、この婚姻関係での義理の関係で辿ることと、ファミリーヒストリーでやっているような直系尊属を辿る作業とはまったく別物です。

岩谷直治氏との関係
なお石川佳純さんの縁戚関係者として岩谷産業の創業者・岩谷直治氏の名前がWikipediaにも出ていますが(岩谷直治 – Wikipedia:「親戚に竹下登(第74代内閣総理大臣)、直系ではDAIGO、石川佳純(卓球選手)、がいる。」)、その関係は不明です。番組でもまったく取り上げられませんでした。※気づいたら削除されていました。やはりそうした事実(直系子孫に石川佳純さんがいる)は確認できないということでしょうか。
・考えられるのは、石川佳純さんの父方の曽祖父・石川晋さんが「大正6年(1917年)に、同郷の岩谷カナと結婚」しており、岩谷直治氏(明治36年生)の生年からすると同氏の妹か姪かに当たるのではないかと思い調べましたが、情報が少なくわかりませんでした。
・なお岩谷直治氏は岩谷邦吉郎の五男であり、氏の兄弟姉妹には岩谷順平氏、山崎孝助氏、岩谷孝三氏、三町シホ氏、中島タサ氏、(幸田)キチ氏、(西本)キヨ氏がいることがわかっています(少なくとも兄弟1名が不明)。現代財界家系譜 第4巻 – 国立国会図書館デジタルコレクション
つまり岩谷直治の姉妹ではなく姪(兄弟の娘)か、あるいは岩谷直治の父・岩谷邦吉郎からのつながり(邦吉郎の妻の姉妹か姪か)ということになる可能性があります。※岩谷邦吉郎自身が岩谷保平の婿養子(保平と妻・モヨとの間に生まれた娘・ミサの元に婿入している)らしい。つまりミサさんの兄弟姉妹かその子孫=岩谷直治の従姉妹あたりの可能性が高い。
・いずれにしろ繋がるのが石川佳純さんの曽祖父の奥様の話であり、恐らくご本人でも把握していない(あるいは聞かされたことがある程度)の関係だと思われます。判明している岩谷直治の兄弟姉妹は大半が岩谷産業の人間と関係があるようで、それが無いということは恐らく岩谷直治ではなくその父・岩谷邦吉郎(の妻)からの関係なのだろうと想像します。
・またWikipediaでは「直系では」となっていますが、一般的にこの言葉は自分の直接の子孫や親・祖父母を指す言葉です。その直系にDAIGOさんや石川佳純さんがいるということは彼らの親(祖父母・曽祖父母…)に岩谷直治氏あるいはその子孫の血が入っているということですが、岩谷直治氏の子供は長女が昭和4年、長男が昭和8年、次男が昭和10年と、それぞれ石川晋さんが岩谷カナさんと結婚した大正6年よりも後に生まれており、ここで既に矛盾しています(ちなみに岩谷直治は明治36年生まれ、竹下登元首相は大正6年生まれ)。そうではなく岩谷直治氏は竹下登元首相と親戚関係であって、その(竹下登氏の)直系にDAIGOさんや石川佳純さんがいるんだということであれば石川佳純さんはそうではないためここでも矛盾します。そもそも竹下登項に「岩谷」の文字すら出てこないため、(何らかの縁戚関係があるのは事実だとしても)少なくとも「直系」という言葉は怪しいかなとあくまで個人的には感じます。念の為に書いておくと、竹下登元首相の母は島根県の造り酒屋・竹下本店の竹下儀造の三女・唯子で、父勇造は武永貞一氏の弟で婿養子として竹下家に入った人物。また竹下登氏は前妻(竹内政江氏)が戦時中に亡くなっており、後妻・直子氏が子供を生んでいる。直子氏は島根県の銀行員遠藤捨次郎の娘。2人の次女まる子氏がDAIGO氏の母だが、DAIGO氏の父は竹下登氏の秘書でもあった内藤武宣氏。つまりここまでに岩谷氏の名前は出てこない。となると竹下登元首相の曽祖父曾祖母の関係者ということになる。しかも1970年刊の岩谷直治氏の家系図には直治氏の曽祖父母から孫まで網羅しているものがあるが、(石川一家はおろか)竹下登氏の名前はどこにもない。竹下登氏は1951年に島根県議会議員に当選
、1958年に衆議院議員に初当選、1964年には佐藤内閣において内閣官房副長官にまでなっており、書き漏らす理由はない。
追記2:Wikipedia石川佳純項に「岩谷直治、岩谷時子は遠縁の親戚。」と書かれています。どうもこの関連のワードでのアクセスがあり、気になったのでこちらを調べてみました。※結論から言えば、また資料がなく不明です。
岩谷時子さんは大正5年(1916年)生まれで、曽祖父が岩谷九十老だと書いてあります。
この岩谷九十老を調べてみると、岩谷直治氏と同じ島根県安濃郡の川合村出身の方で、文化5年(1808年)生まれ、明治28年(1895年)3月に亡くなっているようです。この岩谷九十老は大田にとって特筆すべき名誉な方であり、彼によって救われた農民は数多いようです。「大田市誌 : 十五年のあゆみ」(1968年)
ちなみに岩谷直治氏は同じ島根県安濃郡の生まれですが、長久町に明治36年(1903年)に生まれており、現在の大田市の西の方に長久町が残っています。同じ島根県安濃郡ですが、岩谷九十老の生まれたのは4キロほど南南東に離れた川合村というところになります。要するに岩谷直治氏にとって岩谷九十老は100年弱前に生まれた人物ということになります。結局「岩谷」姓なのでなんらかの繋がりはあるのでしょうが、直接の繋がりはないようです。
上記「大田市誌 : 十五年のあゆみ」の岩谷直治さんの略歴を見ても岩谷九十老については一言も書かれていませんし、逆に岩谷九十老さんの略歴を見ても岩谷直治については一言も書かれていません。なんらかのつながりがあれば、どちらも大田町では特筆すべき偉人なのでしょうから、何らかの繋がりがあるのならば間違いなく岩谷直治氏の略歴にはわずか8年前に亡くなったばかりの岩谷九十老との関係を書くはずです。それが何も書かれていません。
なお岩谷九十老には「岩谷九十老正伝」(1919年)というやや古い本が出されているのですが、そこには「岩谷氏の家系」というものがかなり詳しく書かれています。それによれば、新田義貞の従兄弟・新田上野介義基、左馬介義氏の親子は、南朝の興国3年つまり1342年まで各地を転戦していたがやがて南朝衰え石見(島根県)安濃郡に流れてきたという。そして大田北ノ城主・佐和氏に属して姓を「豊島」と改め、豊島深十郎義重と名乗ったという。佐和城が落城すると佐比売村奥畑(大田から10キロほど南東)に隠れて農民になったという。子の深兵衛義直のとき、子の忠兵衛とともに川合村岩屋の地に移り、姓を「岩谷」と変えたという。この忠兵衛から6代目が与兵衛で、この与兵衛に四郎右衛門・碧順(※)という2人の子がいた。宗家・四郎右衛門改め四右衛門のあと、次郎右衛門、七郎右兵衛、善六と続き、その子・仲右衛門、さらに孝兵衛と続いたという。この孝兵衛に七人の子があり、末子で四男が九十翁(幼名は寛次郎)だと言います。岩谷九十老は四右衛門から数えて7代目だといいます。つまり、岩谷家は南北朝の頃から連綿と続く家であり(新田氏繋がり云々は各地に同様の伝承というものがあるため突っ込みませんが、岩谷姓に変えてからでも連綿と続いているのは事実だろうかと思います)、その一族が恐らく大田の各地に土着して居たのでしょう。その中に岩谷直治氏や岩谷カナさんがいた可能性はあるかと思われます。ただし、Wikipediaに何の出典もなく直系子孫だと書くのはいかがなものかと思わないでもありません。まあ何代前かは不明ながら、遠縁なのは確かなのでしょう。
ところで、列伝の中に登場する「岩谷碧順」という人物は、加藤嘉明の孫・加藤明友が石見吉永藩主だった時に侍医であり、のち天和2年(1682年)に水口に移された際にも従ったと言います。こちらの家系も続き、6代目の岩谷一六が衆議院議員で、この時「巖谷」と改めたという。この一六の三男が日本近代児童文学の創始者と評される巖谷小波。
1932年の雑誌「書道」に巖谷小波氏が故地川谷村に調査に訪れた際に物部神社(島根県安濃郡川合村)の蔵田氏が説明したところによれば、右馬丞義明というものが石見に下った新田氏の末裔に当たり、地名を取って「岩谷(イワヤ)」を姓としたが、のち岩谷九十老の先代孝兵衛(のち善右衛門)の時、大森台感のすすめにより「イワタニ」と改めたと言い、その頃すでに7・8戸に分かれていたようです。
なおこれは調べればすぐに出てきますが、石川佳純さんのお父様の石川公久氏は、株式会社読売広告西部の重役をなさっています。ただし現役で勤務されている方ですので、くれぐれも御本人および会社関係にご迷惑のかからないよう、お問い合わせなどをしないようにお願いします
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