髙嶋政宏さんのファミリーヒストリー

ファミリーヒストリー
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2024年5月、俳優の髙嶋政宏さんのファミリーヒストリーが放送されていました。

家族4人が俳優「髙嶋ファミリー」の歴史を辿る。弟・政伸、いとこの高嶋ちさ子も登場し、父方ルーツを語る。明治の先祖は神戸で広い土地を所有した名士。しかし祖父は定職に就かず、生涯音楽を愛して自由に生きる。音楽の才はちさ子に受け継がれたのだという。母・寿美花代の結婚前の本名は松平節子。調べると先祖が徳川家康の異父兄弟だと分かる。父・忠夫のデビューはある「勘違い」から…など秘話満載。忠夫の病を支えた家族。

父の高島忠夫さんは歌える俳優、母の寿美花代(本名:松平節子)さんは元・宝塚歌劇団星組男役トップスター。高嶋政宏さんと、弟の高嶋政伸さんはともに俳優として活躍されている、日本を代表する俳優一族の一家です。いとこには高嶋ちさ子さんもいます。

 

父・高島忠夫は、正和5年(1316年)7月27日生まれ。出身地は神戸市となっています。

父方:髙嶋家

神戸市御影を訪ねます。

高祖父:髙嶋茂十郎(もじゅうろう)

※続柄表記は高嶋政宏さんを基準とします。

戸籍で辿れるもっとも古い先祖も御影で暮らしていました。忠夫の曽祖父(政宏さんの高祖父)髙嶋茂十郎さん(妻・テイさん)。その長男が明治3年(1870年)4月3日生まれの茂一さん。

髙嶋茂十郎──茂一──信夫──忠夫──政宏

昭和11年(1936年)刊行の「御影町史」を調べると髙嶋茂十郎の名前がありました。

御影町誌 – 国立国会図書館デジタルコレクション

明治22年(1889年)、5ヶ月間だけですが御影町の町議会議員を務めています。

 

曽祖父:茂一(もいち)

茂十郎の子で忠夫の祖父、政宏の曽祖父にあたるのが茂一(もいち)です。

明治37年(1904年)ごろには、家庭雑貨を扱う「荒物金物」の商売を営んでいたことが分かりました。

当時の土地台帳を調べると茂一は 名士だった父・茂十郎から多くの土地を受け継いでいました。政信さんは、「いろんな土地を持ってた」と聞いたことがあるそうです。

所有していたのは現在の阪神御影駅付近から北に国道2号沿いまでの範囲。かなりの広さがあったと思われます。父・忠夫さんも忠夫は著書にこう書いています。「父が子供のころには、阪神御影駅から家に帰りつくまで人様の土地を踏むことがなかった」


※NHKファミリーヒストリーより

※旧「兵庫県御影師範学校」があった大部分の範囲のようです。仮に現在の地図で言う御影駅北側の小さい路地から国道2号線を越したあたりにある路地までとすると南北270m超、東西を弓場筋から東灘警察に面する通りまでとすると170m程度(それぞれグーグルマップでの計測)あったようです。一般家庭を考えるととんでもない広さで、番組でも司会の今田耕司や高嶋政宏さんも驚いた様子を見せていました
この土地はその後姫路師範学校と統合され兵庫県師範学校となっています。第二次世界大戦後の学制改革で、新制神戸大学教育学部(現・国際人間科学部)の前身の一つとなった。現在同地は、御影クラッセや御影タワーレジデンスなどが並ぶエリアとなっている。

茂一は雑貨の商売だけでなく貸家を持ち、家賃収入もありました。更に、学問好きが高じて近所の子供たちを集めて塾も開いていたといいます。

 

祖父:信夫(のぶお)

そんな茂一(妻・みね)の三男として明治36年(1903年)7月12日に生まれたのが忠夫の父で政宏の祖父となる信夫です。

信夫は、先代までとはかなり毛色の違う人物だったようです。

政宏・政伸のいとこでバイオリニストの高嶋ちさ子さん。音楽プロデューサーの父・髙嶋弘之(ひろゆき)さんは信夫の次男。ちさ子さんは信夫の孫にあたります。

そのちさ子さんは、祖父信夫さんを次のように語ります。

うちのおじい…私のおじいちゃんは遊び人だったって言ってた。なんかすごいお坊っちゃまだったらしくて、定職に就かずにふらふら親のお金を使って遊ぶ、そんなおじいちゃんだったって話は聞いたんですけどね。うちそんな調べていいような家じゃないって、うちの父言ってましたよ。大丈夫ですか。

若き日の信夫のエピソードを長男の忠夫が著書に書いています。

なにしろ食べるのに困らないだけのものはありますから、一定の仕事に就く気になれない。祖父に店子さんから家賃をいただいてくるようにと言いつけられてもそのお金を持って競馬に行ってしまうようなひとだったのです。

そんな信夫が生涯熱中したのが琵琶でした。髙嶋哮水(こうすい)の名で演奏会にも出演していました。

高嶋政宏さんも、僕が「おじいちゃんは薩摩琵琶と尺八吹いて。で囲碁打って友達を集めてた印象しかない」って言ったら「どうやって生活してたのか?」と聞かれた。「今見たらなんか地主じゃないですか。大地主じゃないですか。」

 

定職には就かない信夫でしたが、兵籍簿によると大正12年(1923年)二十歳で陸軍に入隊し、大正15年(1926年)に除隊しています。昭和12年(1937年)に日中戦争が始まると臨時の召集をされていました。

昭和16年(1941年)38歳時の信夫の役職は「衛生伍長」とあります。軍隊に合わなかったのか、同期に比べるとやや遅い昇進だったということのようです。

時代を問わず芸事に興じ遊びを楽んだ信夫。父・茂一にも溺愛され自由に生きていきます。信夫の兄・髙嶋正男(まさお)の子孫が京都で暮らしていると知り、訪ねました。

父方の祖母:はる

忠夫の母で政宏・政伸の祖母は「はる」。自由気ままな夫・信夫の分まで髙嶋家を支えました。髙嶋はるで もともとは齋藤(さいとう)はる。

政宏さんは、この祖母について聞かされていた話があると言います。

おばあちゃんのお父さんなのかな。齋藤三平(さんぺい)さんっていう方が、かす汁なのかなんかそのみそ汁にシャケが入った三平汁の考案者だっていうね。

三平汁とは北海道の郷土料理です。

確かにWikipediaにも、その名前が説の一人として書かれています。

三平汁 – Wikipedia

狩りに出た松前藩の殿様が空腹を覚え、漁師の斉藤三平の家で食事を頼んだところ、ありあわせの素材で仕立てた汁物を供された。それがお気に召したところから三平汁と呼ばれるようになったという説[5]。

吟醸百選2007-2008(佐藤水産パンフレットp78)

 

5代前:齋藤三平

そんな齋藤三平を見ていきましょう。

北海道大学附属図書館、北方(ほっぽう)資料室に貴重な資料が残っていました。はるの曽祖父、政宏の5代前の先祖で江戸末期を生きた人物です。

齋藤三平──實尭──鉱二──はる──忠夫──政宏

南部(盛岡)藩の勘定奉行でしたが家老の陰謀により脱藩、幕府から任を受け北海道に渡りました。「齋藤三平 日誌抄録」を残しており、函館にあった奉行所を拠点に地域の振興に尽くした様子が記されていました。鉄山を管理し、じゃがいもを量産しそれを外国船に販売したり、じゃがいもで焼酎を造ったり樹木を植えたり瓦を焼く計画を立てたりしたなどと記されています。文久元年(1861年)北海道の北斗市(旧、上磯町)茂辺地周辺に骨を埋め明治になる7年前に亡くなったといいます。

※辞書にも、齋藤三平は陸奥盛岡藩主の近習で、江戸に出て幕府に出て蝦夷地の開拓を進言するも、はかられて閉門となったとされます。嘉永6年(1853年)にアメリカの軍艦が浦賀に来たときに老中・阿部正弘に北方警備などを訴えるも実現せず、のち自費でアメリカ人を雇って蝦夷地開拓に務めたと書かれています。

ただし三平汁については、齋藤三平の活躍以前にその名が出てくるため、辻褄が合わないという。ただいかなる理由で三平汁という名がついたのかにかかわらず、後世の人々にとって三平さんと言えば茂辺地の齋藤三平さんだったんだろうということが伺えるとのことです。

父方の高祖父:齋藤實堯(さねたか)

齋藤三平の長男が實堯。忠夫の曽祖父で、政宏・政伸の4代前高祖父にあたります。

實堯は英語の勉強に励みます。父・三平が外国人からもらった土石類の原料を製品化する化学工業の原書に興味を持ったのです。幕末、三平が亡くなると江戸に出て身に付けた知見を発揮。

明治2年(1869年)、26歳の時に明治政府が設置した民部省の土木部門で働きました。

明治4年(1871年)には妻・つねと共に現在の千代田区神田小川町に女性のための英語塾 芳英女塾をほうえいじょじゅく開きます。日本で3番目の女子英語塾で日本人経営者のものとしては初めてでした。

その後實堯は、トンネルや橋の建設に欠かせないセメントの製造方法について知識を深めます。明治15年(1882年)には現在の愛知県田原市へ。セメントの原料となる石灰石が豊富な場所で事業の指揮を執ることになりました。

明治15年(1882年)から平成の半ばまで続けられたセメント事業。長い間、田原市の基幹産業の一つで地域の経済を支えました。その土台を築いたのが齋藤實堯。第一に名前が挙がる功労者だといいます。

實堯は明治31年(1898年)54歳で亡くなります。

父方の曾祖母:齋藤はる

北海道で汗をかいた齋藤三平のひ孫、明治の近代化に貢献した實堯の孫にあたるのが明治41年(1908年)生まれの齋藤はるです。

昭和3年(1928年)20歳の時、はるは神戸で髙嶋信夫と結婚。長男・忠夫をはじめ4人の子供を授かり昭和の時代を生きていくことになるのです。

 

父・高島忠夫

自由人の信夫の長男として昭和5年(1930年)に生まれたのが忠夫。後の政宏・政伸の父でした。祖父・髙嶋信夫は、忠夫が小学生の頃から生活のため土地を切り売りするようになります。

忠夫は旧制神戸一中に進学し、水泳部に所属しています。神戸一中は現在の兵庫県立神戸高等学校。明治29年(1896年)に創立された名門です。

忠夫は、平成20年(2008年)創立100周年の記念誌である「百年史」の同窓会編のところに「嗚呼ああ! 神戸一中よ!」と題する文章を寄稿していました。

太平洋戦争のさなか、10代後半の忠夫も壮絶な体験をします。勤労奉仕として高射砲の陣地作りに駆り出され、軍需工場でも働かされました。

昭和20年(1945年)になると神戸は度々激しい空襲に見舞われます。6月の空襲では、両親、きょうだいと暮らす御影石町の自宅が全焼したのです。昭和20年(1945年)のの空襲により神戸の死者は 7,000人を超え戦災家屋は14万戸以上に上りました。終戦後はまさに焼け野原となってしまったのです。

髙嶋家も急ごしらえのバラックでの生活を余儀なくされます。そんな状況でも忠夫には前を向く明るさがありました。

戦後すぐに夢中になったのは音楽。父・信夫が愛した琵琶ではなくギターでした。忠夫は神戸一中でバンドを作り体育館で演奏。戦中の厳しさが残る中教師の叱責を受けます。すると名門中学を中退して街で演奏活動。1年後に関西学院大学の付属高校に編入し大学に進みました。

そして昭和25年(1950年)、二十歳の時人生の転機を迎えます。神戸元町もとまちにあったぜんざい屋での出来事。忠夫は出演した番組で詳細を語っています。

ある日突然、そのぜんざい屋さんたった1人のおねえちゃんが、私は忠夫ですからター坊(と呼ばれていた)。「ター坊あんたなんで映画俳優にならへんの」ってこう。だから 「何言うとんねんおねえちゃん」って言うたら「いや今日私はね佐田啓二さだ けいじ 『君の名は』の。あの佐田啓二さんがデビューした『不死鳥』というね木下惠介監きのした けいすけ督 巨匠のね(映画)見てきた」と。「佐田啓二が松竹のしょうちく二枚目やったらあんたのほうがずっといい男や」と。「あんたが映画俳優にならなかったら誰がなんの」とこう言うたもんやから。でぜんざい屋のトイレ入って鏡見たら、鏡がピカピカピカーッて。まあほらぁ長谷川一夫よりもいい男が 映ってるわけですよ。もうもう目がくらんでるんですね。それで、そうだこれだけの男が映画俳優にならなかったら映画界潰れると。さてどうしたらいいかいなと。と思ったらたまたま新東宝しんとうほうが募集してたんです。

ただ後にわかったことですが、この話忠夫の勘違いだったようで…。

そのおねえちゃんは雨が降ってても「今日はいい天気です。いらっしゃいませ。何しましょう」って言う人いるじゃないですか。お愛想。そのお愛想やった。あの辺一帯のヤツはあのぜんざい屋行った人はあの辺一帯のヤツはあのぜんざい屋行った人は全部役者にならなきゃいけなかったんだと。それみんな分かってるから(役者には)ならない。それを君はバカだから。本気にして。

昭和26年(1951年)映画会社新東宝のスターレット(ニューフェイス)第1期生に忠夫は見事合格します。上京し映画俳優としての人生をスタートさせるのです。

6000人の応募があって採用されたのは19名、男性は4人だけという狭き門でした。

デビューして間もない頃から忠夫の主演映画が次々と作られていきます。忠夫には大きな強みがありました。忠夫の魅力は何と言っても明るさと歌。映画仲間たちは関西のボンボンというイメージから忠夫を「ボン」というニックネームで呼びました。

昭和30年(1955年)年代に入ると、忠夫は舞台俳優としても活躍するようになります。忠夫は陰ながら努力し、大物にもかわいがられたといいます。

映画に舞台に大活躍する忠夫に父の信夫は大喜び。大好きな琵琶の稽古もそっちのけで忠夫のブロマイドを片っ端から配っていたといいます。

昭和35年(1960年)、忠夫は宝塚歌劇の舞台を見に行き一人の俳優に惹きつけられます。寿美花代。本名:松平節子。後の政宏・政伸の母です。

 

母方:松平家

続いて母・寿美花代(本名:松平節子)さんの家系を見ていきましょう。

髙嶋政宏・政伸の母、寿美花代さんは現在92歳。静かに老後を過ごしています。

結婚前の本名は松平節子。

寿美花代こと松平節子が自身のルーツについて語った番組がありました。

松平莞爾

戸籍で名前が確認できる最も古い先祖は松平莞爾かんじ。政宏・政伸の曽祖父にあたります。

松平莞爾──八郎──節子──政宏

明治38年(1905年)に亡くなっていました。

徳川家の旗本の系譜が書かれた資料(寛政譜以降旗本家百科事典)を調べると、確かに松平莞爾の名が。祖父は松平信濃守しなののかみとありました。※その父は松平監物(小左衛門・隼人正・式部少輔)?

松平佐右衛門勝秀

その信濃守の先祖をたどると松平佐右衛門勝そうえもんかつひで秀という人物に行き当たります。

さらに「寛政重脩諸家譜」で佐右衛門勝秀の先祖をたどることが出来ました。それが松平勝俊。母方の安土桃山時代の先祖です。※Wikipediaでは「松平康俊 – Wikipedia」として載っている。

勝俊(松平康俊)の異父兄の「東照宮」とは徳川家康のこと。「伝通院」とは家康の生母於大おだいかたのことです。

天文10年(1541年)に松平家に嫁いで家康(元康)を生みますが、離縁。その後戦国武将の久松俊勝にひさまつ としかつ嫁ぎました。そので3人の子を生んだといいます。

愛知県知多ちた郡久松家が創建した洞雲院とううんいんです。於大の方の墓があります。寺の近くには 久松氏の居城坂部城さかべじょうがありました。そこで母方の先祖勝俊の人生が大きく変わったのです。関ヶ原の戦いの前、家康は坂部城で生母・於大の方と再会。於大の方が久松家で産んだ義理の弟3人に松平の姓を与えました。3人の中の次男が節子の先祖勝俊。その後久松ではなく松平姓を名乗るようになったのです。※俗に言う「久松松平家」

江戸時代に入ると、勝俊の子孫たちは将軍の世話や警護をする任に就きます。

※同じ久松松平家の分家で旗本となった家系に、元NHKアナウンサーの松平定知さんや、その従兄の磯村尚徳さんがいる。こちらの分家初代は松平定澄、その祖先は松平定政となっている。松平定政は松平定勝の六男で、三河刈谷藩主。松平定勝は久松俊勝の子で、上で登場した松平勝俊(康俊)の弟にあたる人物。

幕末、節子の祖父である松平莞爾も十五代将軍徳川慶喜よしのぶの護衛を任されました。

明治2年(1869年)、徳川の世が終わると莞爾は明治政府から思わぬ命を受け現在の静岡県牧之原まきのはら台地にやって来ます。

莞爾たち元士族に課せられたのは荒れ地を開墾し茶畑を作ることでした。忸怩たる思いで農作業を続けますが、明治4年(1871年)には政府からの給金が一方的に打ち切られました。困窮し東京に戻った松平莞爾。元幕臣が経験した転落でした。

松平莞爾は山岡鉄舟の春風館において、十傑の一人と称された高弟であったという。香川善次郎より先輩で、門人帳には筆頭の長谷川運八郎より四番目に記されている。明治16年(1883年)4月5日には香川善次郎に続いて終日立切稽古を誓願成就して伝来の浅黄無地の草摺の胴を拝領し、鉄舟より仮名字目録の相伝を受けたという。

明治18年(1885年)、42歳で莞爾は皇室事務をつかさどる宮内省に出仕します。時代に翻弄されながら再び重要な仕事に就いたのです。

祖父:松平八郎

節子の父で政宏・政伸の祖父松平八郎は明治29年(1896年)7月16日莞爾の五男としてこの世に生を受けました。

大正10年(1921年)飛騨高山ひだたかやま出身で銀行家の娘・大坪おおつぼつゆと結婚。つゆは東京の女学校を出たばかりでした。

自動車の輸入会社で働く八郎は、仕事の都合で東京から大阪へ。大正15年(1926年)現在の西宮市に居を構えました。

母:松平節子(せつこ。寿美花代)

昭和7年(1932年)2月6日 八郎とつゆの三女して生まれたのが松平節子。後の寿美花代。政宏・政伸の母です。

事業を始めるなど、温厚ながらチャレンジ精神がある父。「節子任しとき」と明るく励ましてくれる母。そんな両親のもと、節子は育ちます。

しかし思春期を迎える頃太平洋戦争が激化。それが松平家にも大きな影を落とします。兄・弘(ひろし)が学徒動員により海軍に入ることになったのです。

さらに昭和20年(1945年)母・つゆと子供たちは、上の姉が嫁いだ岐阜の慈雲寺に疎開しました。戦争が終わり西宮に帰った一家に悲しい知らせが届きます。長男の弘が中国南澳島付近で戦死したのです。乗っていた船が撃沈され遺骨は戻りませんでした。長男の死を知らされた母つゆの悲嘆を覚えている人がいます。

松平家の戦後はこうして始まりました。

昭和22年(1947年)、芦屋の女学校に通っていた節子は、新聞を見て心が動きます。戦争が終わり明るく前向きになっていた節子は16歳で宝塚歌劇団に入団。

芸名を寿美花代とします。

寿美さんが若き日を振り返って語った映像があります。

ある3人の若い衆。若い衆ってね、踊りの。それがエプロンステージで踊る。でスターなんです、みんなね。で(ある時)1人が風邪で休まれた。それで急遽代役はいたんですけどもその人のカツラが合わなくて。だから誰か(居ないか)っていうので急遽(カツラを)合わせていったら私んとこへ来てピタッ!(っと合った)。それでその急遽(踊りを)覚えてね。もうそれこそ2〜3分で覚えてでそれが認められたわけ。

戦前にデビューされて戦中・終戦直後にスターになった人たちがスターの入れ替え時期になっており、戦後のスターで抜擢されたのが寿美花代さんだったという。

昭和38年(1963年)、2年間の交際を経て高島忠夫と結婚します。※宝塚は昭和38年(1963年)に退団。

それまで寿美は料理などの家事は家族に任せっきりの生活を送っていました。

座ればごはんが出てくるもんだと思ってた。周りにね、ファンの奥様たちがたくさんいらっしゃるわけですよ。それでその方たちが「まっちゃん、あんた困ってるやろうからね」って言ってお鍋にちゃんとおかずを入れて、それで「忠夫さん帰ってきたらこれあっためてこういうふうにして出すのよ」言うて。主人(忠夫さん)は知らなくて。「うちの家内はね、ものすごい上手でお料理がうまくてね、本当にいい嫁をもらったって(話してた)。」思ってた。だました。

※宝塚歌劇団時代の寿美花代の愛称が「マッちゃん」

このころ忠夫は 演出家・菊田一夫が執念を燃やしたブロードウェイミュージカルの日本版公演の舞台に次々と出演。ミュージカルを日本に根づかせる後押しをしました。

結婚の翌年、高島忠夫と寿美花代に長男・道夫みちおが誕生。※昭和39年(1964年)8月24日

しかし突然の不幸に襲われます。生後5か月だった道夫が、家に出入りしていた未成年の女性によって殺害されてしまったのです。忠夫と寿美は、事件の傷をいたわりあって生きていくことになります。

高島忠夫長男殺害事件 – Wikipedia:自宅風呂で風呂桶の中に沈められている長男が発見され、後に未成年であった家政婦Aが成人同様に殺人罪で起訴され、1965年6月に東京地方裁判所にて懲役3年から5年の不定期刑を言い渡された。
これが後の政宏さんへの「スキューバは止めて」の話につながる。後に政宏さんがスキューバダイビングをやると行った時には、泣いて止められたのだという。また事件から49年がたった2013年にTV出演した寿美花代さんは「いまだに、お風呂っていうとシャワーしか浴びれない…」と苦しみ続けていることを語っている。

昭和40年(1965年)に政宏(次男)、翌昭和41年(1966年)に政伸(三男)が誕生し、4人家族となった髙嶋家。夫婦共に家では明るく、長男のことは語らなかったといいます。

その後、忠夫も寿美もとりわけ家族のことを大切にしました。ロケがある時は、必ず一緒についていったといいます。

昭和40年代、娯楽の中心は映画からテレビへと移っていきます。

昭和46年(1971年)、高島忠夫・寿美花代夫婦にある仕事が持ちかけられます。それは平日昼に放送される料理番組「ごちそうさま」(日本テレビ)の司会でした。

引き受けた忠夫は軽妙なトークで進行を務め、司会者として新境地を開いたのです。

 

その後

いとこにあたる高嶋ちさ子さんはバイオリニストとして活躍しています。

政宏・政伸は、共に大学在学中両親と同じ俳優の道へと進みます。

昭和62年(1987年)、政宏は映画「トットチャンネル」のオーディションに合格しデビュー。司会の仕事が多くなっていた忠夫は息子の夢を全力で応援します。

政伸は大学時代映画監督を目指し映画を自主制作。そこで大きな借金を作ったことが俳優になるきっかけとなりました。映画にかかった請求書280万円は建て替えをしてもらいましたが、その代わりに「役者をやれ」と言われたのだという。「役者をやりながら地道に返せ」と言われたのだという。政伸もNHK連続テレビ小説「純ちゃんの応援歌」で俳優デビュー。

こうして髙嶋ファミリーは4人でコンサートを開くなど日本で一番有名な芸能一家となったのです。デビューから30年以上。忠夫の息子たちは現在も第一線で活躍し続けています。

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