2020年の大河ドラマ「麒麟が来る」で主役明智光秀を演じる長谷川博己さんが、ファミリーヒストリーに登場していました。
大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」で明智光秀を演じる長谷川博己さん。1300年前、先祖が鳥取・大山寺を開山した伝説が残っていた。江戸時代には長谷川家は島根・玉造温泉で重要な役職を任される。その後、温泉旅館の経営を始め、祖父が建てた建物は国の文化財として今も残る。一方、母方のルーツは山形・新庄。祖父はかつて俳優を目指していたことが判明した。さらに亡き父の知られざる思いに博己さんは涙が止まらなかった。
(NHKファミリーヒストリーより)
父方
まずは長谷川博己さんの父方を見ていきます。
父方のルーツ
百三郎──國太郎──忠夫──堯──博己
父方の故郷は島根県松江市玉造。長谷川家は代々この地で暮らしてきたと言います。
地名”玉造”の由来は、この地で多く産出されるメノウをつかった「勾玉」づくりが盛んであったためといいます。三種の神器の一つ「八尺瓊勾玉」は、櫛明玉命によりこの地で造られたとも伝わります。
玉造は古来温泉地としても知られ、松江観光協会などでは「日本最古の湯」、「神の湯」を謳っており、天平5年(733年)の「出雲国風土記」には次のように書かれています。
一たび濯(すす)げば形容端正(かたちきらきら)しく、再び沐(ゆあみ)すれば万病悉(ことごと)く除(い)ゆ
また清少納言も「枕草子」一一七段において次のように、三大名泉の一つとして玉造の湯を挙げています。※七栗は榊原温泉(三重)ほか諸説あり。
湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯
長谷川家はこの玉造の地で長年温泉宿「保性館」を営んできました。父・堯さんも保性館で誕生しています。同館には、昭和6年(1931年)に皇族を迎えるための「幽泉亭」が建築され、昭和22年(1947年)の昭和天皇のご宿泊以来、10回を超える皇族の宿泊があったといいます。
※ただし現在、経営権は「ホテルマネージメントインターナショナル株式会社」に移っています。なお玉造温泉には他にも、長谷川家の流れを汲む旅館である「長楽園」や「長生閣」などがあります。
祖先・金蓮上人と大山寺
今も玉造には、長谷川さんのいとこである長谷川幸延さんが住んでいます。幸延さんの父・八郎さんは長谷川博己さんの父・堯さんの兄にあたる人物です。
長谷川家にはある伝説が伝わっており、それによれば長谷川家のルーツのひとりである奈良時代の人物・長谷川俊方は猟師を生業としており、あるとき白い鹿を見つけて仕留めた所、白いお地蔵さんに変わったのだといいます。それ以来、殺生を止め出家をして坊主になったのだと伝わります。幸延さんの自宅にはこの俊方をかたどった像が祀られています。
この逸話と同じ話が、鳥取県西部にある霊峰・大山(だいせん)に残っています。
大山の中腹にある「角磐山大山寺」は、天台宗別格本山で中国三十三観音第二十九番にあたります。この「大山寺」は、養老2年(718年)に金蓮上人によって開かれたとされます。この金蓮上人は長谷川家の出であり、先に登場した長谷川俊方であるといいます。
当寺に伝わる「大山寺縁起」には、出雲国玉造というところに猟師ありけり。金色の狼を見つけて山の中のほこらに入ったところ、狼が地蔵菩薩に姿を変え殺生の罪を悔い発心を起こしてお坊さんになり金蓮聖人となって山で修行した。という旨の内容が記述されています。
玉造温泉の湯薬師堂
さらに長谷川家には温泉に関する逸話も残されています。
古来、玉湯川のそばにあった湯元が鎌倉時代に埋まってしまい、川床を懸命に掘って湯元を探した所、仏像が出てきたと言います。この時発見された薬師如来像は「湯薬師堂」に保管されており、現在もこの「湯薬師堂」は長谷川家が一族で管理しています。
この話は「玉造温泉湯之由来」にも書かれており、「長楽園」のサイトにそれが書かれています。
鎌倉時代の終わり頃、川辺の出湯(玉造温泉)は洪水で埋まっていた。ある時、富士名判官義綱公が病を得てふせっていたところ、家臣綱久の夢枕に白髪の老人がたち「玉湯川に温泉あり。これを浴びれば主君の病は癒える」と予言した。川を堀たところ薬師如来像を発見し、温泉が湧き出し、義綱公がこのお湯に浸かったところ病気もたちまち快癒。喜んだ義綱公が薬師如来像を祭るお堂を建て、湯船や上屋を造りました。
長楽園の歴史|島根 玉造温泉 湯之助の宿 長楽園
※この「富士名判官義綱公」とは、富士名雅清として知られる人物。富士名氏は佐々木氏から出た湯氏の支流で、出雲八束郡布志名(富士名)の地頭。富士名雅清 – Wikipedia
江戸時代「湯之助」
江戸時代、松江藩では玉造温泉に別荘「お茶屋」を設け、代々の藩主が静養に訪れたという。また湯どころには温泉の管理者「湯之助」が置かれ、松江藩より任命されてきたといいます。
先述長谷川幸延さんの家に伝わる「玉造温湯之由来」には、慶安3年(1650年)に藩主より「湯之助」の任命を受けたとの記述があります。この「湯之助」は単に温泉の管理にとどまらず、温泉地での争いごとの解決一切も関わっており、長谷川家はその後、玉造温泉を取りしきる立場となります。
最初に「湯之助」を命じたのは松江藩2代藩主堀尾忠晴で、その祖父・堀尾吉晴は”堀尾茂助”で知られる人物です。織田信長の稲葉山城攻めの際、稲葉山の裏道の道案内役を務めたことで有名です。その後、堀尾吉晴は豊臣秀吉に付属されて各地を転戦し、天下分け目の山崎の戦いでは秀吉の命令で堀秀政や中村一氏とともに先手の鉄砲頭として参加し、天王山争奪の手柄を上げています。
江戸時代を通じて「湯之助」の役を拝領した長谷川家は、やがて温泉宿の経営に乗り出し、明治に入り湯之助の役職を離れた長谷川家は本格的に旅館経営に乗り出してゆくのです。
保性館の誕生
明治の中頃に玉造で新たな温泉の掘削が許されると、長谷川家以外にも温泉旅館が開業し競争が激化していきます。
そこで明治30年(1897年)、八代目・百三郎はそれまでの旅館では手狭だと考え大きな賭けに出ます。湯元から離れた位置にある田んぼをいくつか潰した上で、巨大な旅館「保性館」を開業します。
当時玉造で最も大きな建物で、玄関からもはるか遠く宍道湖が見渡せたと言います。
明治42年(1909年)には玉造に山陰本線湯町駅(現在のJR西日本 玉造温泉駅)が出来ます。出雲大社を訪れた参拝客の多くが玉造温泉にも足を延ばすようになり、旅館の経営も軌道に乗っていきます。
しかし百三郎の跡を継いだ九代目・國太郎には娘が三人で跡取りとなる息子が生まれず、國太郎はほうぼうを周り跡取りとなる人物がいないかを尋ね回ります。その中で見つけたのが、布志名焼の窯元・丸三陶器商会で絵付けを担当していた中島忠夫という人物だったのです。忠夫は大社中学を出て窯元に弟子入りした人物で、美術方面だけでなく料理も得意だったと言います。
祖父・長谷川忠夫(旧姓・中島)
この中島忠夫の生家・中島家は松江藩に仕える下級武士で、先祖・中島奥右衛門が松江藩家老・大橋茂右衛門家に仕え若頭となっています。
江戸時代後期、中島忠夫の先祖は松江の本家から分家し、出雲で農業を始めています。そして明治25年(1892年)に生まれた三男が、長谷川家に婿入りした中島忠夫でした。
忠夫が生まれ育ったのは島根県簸川郡。中島家の生活は苦しく、兄弟はそれぞれ寺へ奉公に出されます。忠夫も寺に出されてそこから中学に通わせてもらい、中学卒業後も奉公先の寺に世話になりますが、のち陶芸を志し丸三陶器商会で絵付師として働き始めます。
そして大正7年(1918年)、九代目・國太郎の娘・嶋子と結婚して長谷川家に婿入りすることになります。
十代目として
長谷川家に入った忠夫がまっ先に取り組んだのが、名物となる料理の献立を考えることでした。器の選定から盛りつけなど、料理人にきめ細かく指示します。近くの宍道湖でとれる新鮮な白魚を使ったメニューを旅館の売りにしました。
名物料理だけでなくおもてなしでも高い評判を得た忠夫は、次第に趣向を凝らした立派な別館を増築したいと考えるようになります。皇族が島根に来ることがあれば宿泊されるような気品高い別館で、その理想は、幼い頃によく参拝した出雲大社のような気品ある建物であったといいます。
材料となる銘木を探すため自ら各地を回りました。5年もの歳月をかけ昭和6年(1931年)に完成したのが「幽泉閣」(現在の幽泉亭)です。太平洋戦争中に各旅館が軍の宿舎にあてられる中、同館のみは戦勝を祈願する出雲大社の参拝客を受け入れる旅館として営業が続けられたと言います。そして昭和22年(1947年)忠夫の夢がかない、昭和天皇の宿泊先として選ばれます。その後も皇族の宿泊が続き、平成30年(2018年)に「幽泉閣」は国の有形文化財に登録されます。
※現在もこの「幽泉亭」は現存しており、見学のみが可能となっています。
父・長谷川堯
昭和12年(1937年)、十代目・長谷川忠夫と妻・嶋子の間に五男として生まれたのが長谷川博己さんの父・堯さんでした。
※若い頃の父君は、現在の長谷川博己さんとそっくりです。ご本人も初めて見たということで驚くと共に、あまりに似ているため恥ずかしいとも話していました。
現在の島根大学教育学部附属中学を経て、現在の松江北高校(島根県立松江高校)卒業後上京し、早稲田大学第一文学部で美術史を専攻します。
同大学卒業後、昭和35年(1960年)に卒業論文「近代建築の空間性」が雑誌『国際建築』(第27巻8号・1960年8月号)に掲載され評論活動をスタートします。これは異例なことでしたが、堯はその後定職にはつかず様々な分野の評論を手掛けます。その中の一つが歌舞伎でした。当時、ある若手歌舞伎役者と対談をきっかけに交流が始まります。それが歌舞伎役者の坂東玉三郎さんだったのです。※五代目坂東玉三郎(出生名:楡原伸一氏)のこと。
坂東玉三郎さんは、大河ドラマ「麒麟がくる」では正親町天皇役としてテレビドラマ初出演を果たしていますが、その理由の一つに、旧知であった堯氏の息子が俳優をやっていたことを知ったためでもあるといいます。
(長谷川博己が)『僕、来年大河の主役なんですよ』と。じゃあワンシーンだけ出た方がいいかもしれないわねなんて話をしていたら、このように
坂東玉三郎「長谷川君の父と知り合い」大河出演理由 – 芸能 : 日刊スポーツ
なおファミリーヒストリーでは坂東玉三郎さんは、2016年公開の映画「シン・ゴジラ」を見た際に、プログラムに書かれていた「父・長谷川堯」という記述を見て驚き、久しぶりに堯氏に連絡をしたと語っています。
博己さんの存在は知ってたんですけども、まあ「シン・ゴジラ」は大変面白くて。プログラムを見てるうちに「父が長谷川堯」って書いてあって、僕ちょっとびっくりしまして。で堯さんに久しぶりにお電話して、「あの僕知らなかったんですけど、ご子息が俳優さんだったんですね」って聞いたら「そうなんですよ」って。
※恐らく、先にシン・ゴジラの時(2016年7月29日公開)の話があり、その後、博己さんの大河出演が決まった後(2018年4月発表)に再び出会いがあり、その後、玉三郎氏の大河出演の話がまとまっていったものと思われます。とすると、坂東さんの「博己さんの存在は知ってた」という言葉は、恐らく「俳優としての博己さん」という意味であって、「長谷川堯さんの息子」としてでは無くそれまでは堯さんにお子さんがいる程度の認識でしかなかった。それがシン・ゴジラの時に一気にリンクしたのだという意味だと思われます。後に引用する写真では、父・堯さんは武蔵野美大で教え始めた頃には既に貫禄たっぷりな風貌になっており、スリムでスマートな博己氏と結びつかなかったのだと思われます。
31歳のとき、父・堯に著名な建築雑誌から執筆依頼が舞い込みますが、そこで堯は代々木体育館を設計した巨匠・丹下健三の建築を批判します。一方で堯は、大正時代に建てられた豊多摩監獄を実用性と機能美を兼ね備えているとして絶賛(『神殿か獄舎か』1972年刊)。この無名の若手評論家による大胆な主張に対して賛否両論が巻き起こり、注目を集めるようになります。評論発表の翌年には武蔵野美術大学の非常勤講師に招かれます。長谷川堯さんはその後、昭和52年(1977年)に武蔵野美術大学助教授、昭和57年(1982年)に武蔵野美術大学教授と歴任します。
この武蔵野美術大学での教え子の中に山形出身の女子学生がいました。これが後に長谷川博己さんの母となる人物でした。
母方
続いて母方を見ていきましょう。
母方のルーツ
長谷川博己さんの母・恵子さんの実家・今田(こんた)家は、山形県新庄市にあります。今田家は元々農家をしていたといいます。
巳吉──イシ──庄次郎──恵子──博己
高祖父・今田巳吉
四代前の高祖父・巳吉は次男だったため、家を出て下駄屋を始めています。
さらに巳吉の長女・イシは繁蔵を婿養子をもらい父の下駄屋を引き継いでいます。
祖父・今田庄次郎
大正12年(1923年)、イシと繁蔵の間に生まれたのが、長谷川博己さんの母方の祖父・庄次郎でした。
昭和16年(1941年)、18歳になると国鉄(日本国有鉄道。現在のJR)へと入社し、地元の新庄駅で働き始めます。20歳で陸軍に招集され衛生兵となりますが、外地に出ることなく終戦を迎えます。戦後は国鉄に復職し、そして結婚します。
昭和24年(1949年)に生まれたのが、長谷川博己さんの母・恵子さんでした。更に翌年妹が生まれます。
ところが庄次郎は、突然家族を放り出して東京に出ていってしまいます。以前から映画スターになることを夢みていた庄次郎は、劇団文化座に入ります。しかし母・イシによって実家に連れ戻され俳優になることは許してもらえませんでした。
イシは頭を下げて庄次郎を国鉄に復帰させます。当時文化座には昭和の名優・丹波哲郎がおり、彼がTVに出ているのを見ると「この人はおれの2期先輩で、俺がそこ(文化座)にいればもっと売れていたかもしれない」とよく語っていたと言います。
母・今田恵子
母・恵子は絵を描くのが得意な少女だったといい、高校卒業後は美術大学を志します。昭和43年(1968年)倍率が数十倍と高かった難関、武蔵野美術大学に見事合格します。専攻は油絵。
※とても美しいお母様です。こちらの写真も博己さんは初めて見たといい、「今とぜんぜん違う!」とも口走っていました。
そして3年生の時、講師としてやって来たのが長谷川堯さんでした。
恵子は知的な堯に惹かれていきます。そして恵子が大学を卒業した2年後の昭和49年(1974年)、2人は結婚します。
結婚して3年後、昭和52年(1977年)に生まれた長男が、俳優の長谷川博己さんです。
年代整理
- 恵子さん[18歳] 昭和43年(1968年):武蔵野美大に入学
- 堯氏[31歳] 昭和44年(1969年):雑誌に「神殿か獄舎か」発表 ※書籍刊行は昭和47年(1972年)
- 堯氏[32歳] 昭和45年(1970年):武蔵野美大で非常勤講師。「3年生の時に講師」
- 堯氏[36歳]、恵子さん[24歳] 昭和49年(1974年):結婚
- 昭和52年(1977年):長谷川博己さん誕生
大山開山1300年祭と大河発表
奈良時代、長谷川博己さんの先祖・長谷川俊方こと金蓮上人が修行し、仏の道に入った鳥取県の大山。3年前の平成30年(2018年)は、この金蓮上人が大山寺を開いて1300年にあたりました。
1年を通して行われる1300年祭。この1300年祭が始まって程ない2018年4月19日、2年後の2020年大河ドラマ「麒麟が来る」の制作発表が行われます。
主役・明智光秀を演じるのは、長谷川博己さんでした。
いっぽう父・長谷川堯さんは、博己さんの大河出演が決まる半年前から闘病生活を送っていました。闘病虚しく、大河放送前の2019年4月17日がんのため死去、81歳没。