2020年7月20日のファミリーヒストリーに、俳優の鶴見辰吾さんが登場しました。
辰吾さんは親戚と交流が無く、鶴見家のルーツを知らなかった。今回、鶴見家は松本城主・水野家の家臣だったと判明する。しかし、水野家はある事件で、大名から転落した。家臣の誰が残るかを決める際、驚きの方法が用いられる。鶴見家の強運が明らかになる。一方、母方・本多家は、岡崎城主につながる家。明治維新後、本多家が向かったのは静岡。これが原因で、父方・鶴見家は、岐路に立つことに。辰吾さんは驚きを隠せなかった。
(NHKファミリーヒストリーより)
父方は、沼津藩水野家の家臣。母方は、大身旗本本多家。
明治維新後に静岡で先祖同士が行き違っていたという、運命的な出会いがありました。
父方
まずは父方から見ていきましょう。
松本藩・水野家臣
鶴見辰吾さんのいとこにあたる鶴見和則さんの家に伝わる家系図によれば、鶴見辰吾さんの祖先である鶴見則宗(市右エ門)は武田信玄に仕えていましたが、武田家滅亡後にその子・鶴見則満は水野忠清に仕えたと書かれています。
水野忠清は江戸時代初めの信州松本藩7万石の藩主です。
江戸時代の水野家の家臣録には、歩行組に属している米十石三人扶持・鶴見市右エ門(則宗)の名が記されています。この鶴見市右エ門は、鶴見辰吾さんの12代前の当主ということになります。
信州松本藩改易
江戸時代中頃、鶴見家は藩主の起こしたある騒動に巻き込まれます。
信州松本藩水野家6代当主・水野忠恒は、享保10年(1725年)に大垣藩主・戸田氏長の養女(戸田氏定の娘)を娶ります。その祝言を行なった翌日の7月28日、将軍吉宗に謁見したのち水野忠恒は、江戸城・松の廊下で長門長府藩主の世子・毛利師就に斬りつけます。水野忠恒はその場で取り押さえられ、叔父の水野忠穀の浜町の屋敷に蟄居となり、元文4年(1739年)に没。
信州松本藩水野家は改易され、領地は没収されてしまいます。
分家の若年寄・水野忠定の取り成しにより、同年8月27日、叔父の水野忠穀に信濃国佐久郡7000石(高野町知行所)が与えられ家名は存続しています。
しかし7万石から十分の一に削減されたことから、2,000人いた家臣団も大幅に削減されることとなります。この時、松本藩水野家では、藩士の名前を紙に書かせて、上から振らせ地面に描いた輪の中に落ちたもののみを家来として残したと言います。
鶴見家の名前を書いた紙は、幸運にも輪の中に落ち家臣として家名を存続させています。
沼津藩・水野家臣
刃傷事件から40年後の安永6年(1777年)、水野忠穀の嫡男・忠友の代に、三河大浜を経て沼津藩2万石を拝領し、水野家は再び大名に返り咲きます。
沼津藩の家臣録に残る鶴見金太夫は、近習や供頭、郡勘定奉行などを歴任したと言います。52石。また鶴見小源太は59石などと、代々側近くに仕えたことがわかります。
曽祖父・鶴見應
幕末の当主・鶴見作之助應(まさ)は安政元年(1854年)生まれ。鶴見辰吾さんの曽祖父です。この作之助も小銃を担ぎ、西洋式の陸軍の兵士として幕末の戦いに参軍しています。
沼津藩は当初幕府方でしたが、劣勢になったとみるや生き残りをかけて新政府方へと付くことになり生き残ります。しかし明治維新後、沼津を含めた静岡県には徳川慶喜以下1万3千人が移り住んでくることになります。形の上では叛旗を翻した旧主が来ることになったため、沼津藩水野家は沼津から出ていかざるを得なくなります。
慶応4年(1868年)水野家は上総国菊間(千葉県市原市)へ移封となります。急遽決まったこの移封に家中は大混乱となり、藩士たちは家を解体して海岸まで運び、船に乗せて市原市八幡まで運搬し、さらに積み替えた上で村田川を遡って菊間へと移り住んだといいます。旧菊間藩の藩士名簿には、鶴見作之助應は150坪の邸宅を与えられていたと記録されています。
明治4年(1871年)に廃藩置県が行われると、菊間藩はわずか3年で廃藩となります。
鶴見應は、20歳になった頃に東京の牛込区牛込天神町(現在の新宿区天神町)に移り住み、そこで家具職人になります。
鶴見應には9人の子がいました。長男・龍太郎、長女・樹永、次男・巌、三男・應男(まさお)、四男・應辰(まさとき)、(略)、三女・作、五男・五郎、六男・博。
末っ子の博が鶴見辰吾さんの祖父にあたります。
祖父・鶴見博
祖父・鶴見博は、幼い頃から絵を描くのが好きで、兄たちから援助を受けながら画家になることを夢みていました。
27歳の時に結婚して横浜で暮らし、3人の息子に恵まれます。長男・武、次男・榮一、そして昭和9年(1934年)生まれの三男・剋之が鶴見辰吾さんの父です。
博は画家としても活動しながら、安定した収入を得るため友禅染の絵柄を描く仕事も始めます。
昭和20年(1945年)になると、横浜も度々空襲を受けるようになり、一家は千葉県成田市へと疎開しています。祖父・博は終戦後の昭和23年(1948年)5月に肝臓がんで没。享年49。
残された家族は、博の兄である應辰を頼り、世田谷へと移り住みます。
父・鶴田剋之
父・鶴田剋之は、早稲田大学高等学院から早稲田大学政治経済学部に進学し、卒業後は石油製品の専門商社に就職しました。しかし1年足らずで退職すると、兄・武たちがたちあげた電気設備会社を手伝うことにします。
ある日、剋之は友人から一人の女性を紹介されます。それが後に鶴見辰吾さんの母となる本多博子さんでした。
母方
続いて母方を見ていきましょう。
鶴見辰吾さんの母・本多博子さんのルーツは岡崎城主・本多家といいます。
旗本・本多家
戸籍では、4代前の本多左内忠誨(ちゅうかい)までたどることができます。二千石の大身旗本です。
本多左内忠誨は四谷のあたりに屋敷地を拝領していました。現在は日本大学通信教育部・通信教育部3号館となっています。建物前の案内板には、左内の一代前である本多筑前守の屋敷地と記されています。
この家系は「寛政重修諸家譜」でも辿ることができ、それによれば、祖先は三河岡崎藩初代藩主であった本多康重に辿り着きます。
三河岡崎藩初代藩主・本多康重
本多康重は三河本多氏の一族です。
この三河本多氏では、徳川四天王の一人である本多忠勝の家系である平八郎家 、作左衛門家(本多重次ら)、弥八郎家(本多正信ら)、三弥左衛門家(正信の弟・本多正重の後裔)、そして本多康重の家系である本多豊後守家などが有名です。本多一族は安祥七譜代と呼ばれる徳川家(松平宗家)の最古参の譜代家臣として忠誠心も高く、また重用されてきました。
本多康重は掛川城攻めにて初陣を果たし、姉川の戦いや長篠の戦いにも参加しています。特に長篠の戦いにおける鳶巣山の戦いでは、武田軍に左股を撃たれながらも活躍し、その時の弾は生涯にわたり抜けなかったとまで伝わっています。
これらの功により、康重は小田原征伐後に上野国白井藩2万石となり、関ヶ原の戦い後には家康の故地である三河国岡崎藩5万石を与えられています。
岡崎城の石垣を整備したのが康重の孫の本多忠利(伊勢守)。この忠利の七男・利朗(としあきら)の系譜が鶴見辰吾さんの母方となります。
正保2年(1645年)、本多利朗(式部、従五位下・兵庫頭)は二千石を譲り受け、江戸へと移り住みます。将軍家綱の小姓を務めました。
この本多利朗を初代として、九代目となる本多左内紀意(のりおき、筑前守)は天保9年(1838年)目付を経て、旗本としては異例の抜擢を受けて京都町奉行に任命されています。
高祖父・本多忠誨
幕末、この旗本・本多家に生まれたのが鶴見辰吾さんの高祖父・本多忠誨(ちゅうかい)です。
忠誨は目付介として第二次長州征討に参加しています。
大政奉還後、旗本には3つの選択肢が与えられます。1つ目は徳川宗家に従い静岡70万石の家臣となること。2つ目は江戸に残り明治新政府に所属替えをすること。そして3つ目は武士の身分を捨て百姓町人になること。
本多忠誨は、徳川家に従って静岡へと向かいます。こうして徳川慶喜以下1万3千人が移り住むこととなり、父方で見てきたように沼津藩水野家は菊間へと移封されることになるのです。
明治初年の静岡県の地券台帳には士族・本多忠誨の名が記されています。しかし静岡での慣れない暮らしは決して楽なものではなく、本多忠誨は明治8年(1875年)11月に静岡の土地を手放し、明治9年(1876年)2月に東京神田末広町へと移っています。
帝室博物館にも8年間務め、明治37年(1904年)12月、忠誨は胃がんにより63歳で病没しています。
曽祖父・本多三子三
本多忠誨の子供は、長女・すず、長男・三子三、次女・ふでの3人。
長男の三子三(みねぞう)康矩が鶴見辰吾さんの曽祖父で、明治9年(1876年)2月に神田で生まれています。
苦しかった家計を助けるため、明治19年(1886年)三子三はわずか10歳で築地にあった印刷工場で丁稚として働きに出ています。明治37年(1904年)には独立を果たし、京橋に鉄工場を設立しています。仕事は成功し、4年後の明治41年(1908年)3月には本多機械製作所は隅田川の新大橋近くに大きな工場を建てています。
初妻・ふくとの間に、長女・薄井治子。次妻・まさとの間に次女・幸子、三女・ゆき子、長男・義昌、次男・道朋。そして三妻・つるとの間に、三男・小林章純が生まれています。
三子三は深川に大きな屋敷を構え、子供一人一人に乳母をつけるほど裕福な暮らしをしたといいます。しかし大正12年(1923年)9月、関東大震災により被災します。埋立地である深川も被害は甚大で、三子三の工場は焼失。震災後、仮店舗で細々と営業を再開します。
震災についての情報を知るべく需要が巻き起こったことから印刷業界は活況を呈し、印刷機械を製造していた三子三は次々と新たな印刷機械を開発し、特許も取得しています。
昭和10年(1935年)ごろには大陸各地に特約店や代理店を展開して販路を広げることにも成功しています。
昭和13年(1938年)、三子三は病没。
祖父・本多義昌
大正3年(1914年)、三子三の長男として生まれたのが鶴見辰吾さんの母方の祖父・本多義昌です。
三子三は跡継ぎとすべく義昌に帝王学を叩き込みますが、義昌は印刷業界に興味持たず、会社は姉夫婦(次女・幸子、本多浜五郎の夫妻)が継いでいます。
義昌が憧れていたのが銀幕のスター、映画俳優でした。数本の映画に端役で出演しましたが、大成することはありませんでした。
昭和15年(1940年)義昌は26歳で結婚。2年前に亡くなっていた父の三子三から莫大な遺産を相続しており、本郷の一等地に家を建てています。
2年後の昭和17年(1942年)に次女の博子が生まれます。後の鶴見辰吾さんの母です。
昭和19年(1944年)、30歳の義昌は召集されて旧満州中国東北部の虎頭へ向かい、ソビエト連邦(現、ロシア連邦)との国境警備の任務に就きます。しかし間もなくして義昌はポリオを発症したため陸軍病院に入院し、そのまま終戦を迎えます。満州にいた兵士はその多くがシベリアへと送られますが、病人だった義昌は昭和21年(1946年)6月に復員します。昭和21年(1946年)6月9日舞鶴港上陸。
自宅は戦災で消失していたものの、家族全員が無事でした。
やがて病気は癒えますが、父の三子三から受け継いだ土地や建物を切り売りすることでしのぎ、本郷に自宅を立て直しています。
昭和50年(1975年)、義昌は61歳で没。
母・本多博子
昭和36年(1961年)、都立高校を卒業した博子は、間もなく友人から8歳年上の鶴見剋之を紹介されます。
本多忠誨 - 本多三子三康矩 - 本多義昌 - 本多博子
1年の交際を経て、昭和39年(1964年)2人は結婚します。
この年に長男・辰吾が誕生します。
鶴見剋之は、兄たちと起こした電気設備会社も順調で、夫妻は東京・国分寺に100坪の土地を購入して新居を建て、移り住みます。しかし1年後の昭和43年(1968年)に会社が経営不振に陥り、倒産に追い込まれます。建てたばかりの新居も手放すしかありませんでした。
剋之は家族を支えるため、神宮前にラーメン店を立ち上げます。その後も、だんご屋や居酒屋などさまざまな商売を手がけました。
鶴見辰吾さん
昭和52年、辰吾は私立成蹊中学に入学します。おとなしい辰吾でしたが、あることで注目を集めます。
中学に進学したある日、叔母が辰吾に内緒でドラマ「竹の子すくすく」のオーディションに応募します。主演・片平なぎさの弟役でした。
辰吾は受かるはずがないと軽い気持ちでオーディションに向かいましたが、劇団に在籍する大人びた子供が多い中、まだ身長が低く幼い顔つきだった辰吾は明らかに場違いな雰囲気でした。しかし、その素人っぽさと童顔が逆に受けたのか、見事2,000人以上の応募者の中から役を射止めます。
さらにNHK土曜ドラマ「天城越え」で、大谷直子演じる年上の女性・大塚ハナに憧れる少年の役を見事に演じきりました。その翌年、さらに転機となるドラマに抜擢されます。これがTBSの「3年B組 金八先生」で、最終回の視聴率はなんと39.9%を記録します。
鶴見辰吾さんはその後も映画での主演などを演じ、近年は渋い脇役なども演じるベテラン俳優となっています。
父方は松本藩から改易を経て沼津藩主へと返り咲いた水野家の家臣。母方は岡崎城主から分かれた大身旗本の本多家。明治維新後に、様々な事情により静岡で先祖同士が行き違っていたという、運命的な出会いのあるファミリーヒストリーでした。