ファミリーヒストリーに女優の鶴田真由さんが登場しました。
ご先祖は新撰組(新選組)だそうです。
鶴田真由さんの母方の先祖に、新選組の隊士がいたという。幕末に撮られた写真もある。しかし、詳しいことは分からなかった。今回、その人物は元桑名藩士で、主君を守るため新選組に入り、最期は切腹したという人生が明らかに。一方、父方のルーツは大分・別府。明治の初め、4代前・高祖父が、ある理由で武士の家を出た。その後、網元になり、さらには温泉旅館を始めた。力強く生きた先祖の姿に、真由さんは驚いてばかりだった。
(NHKファミリーヒストリーより)
父方
まずは鶴田真由さんの父方を見ていきます。
父方のルーツ
父方のルーツは大分県別府市の海岸沿いで、大正時代から温泉旅館「ニューツルタ」を営んできたといいます。
創業は大正7年(1918年)。網元兵綱として漁業と兼業で湯治客の宿泊も生業としていた一族が、当地で木造3階建ての「鶴田旅館」を創業したのが始まりです。
文政10年(1827年)生まれの兵吉(ひょうきち)が鶴田真由さんの4代前、高祖父にあたります。
昭和23年(1948年)には米進駐軍の接収解除を受けて、屋号を「鶴田ホテル」へと改称し、さらに昭和43年(1968年)には現在の「ホテルニューツルタ」へと改称しています。
「ニューツルタ」の現在の主人は鶴田真由さんのいとこにあたる鶴田浩一郎氏。
父方の先祖
父方の先祖はさらに遡ることができ、佐伯藩(毛利家、外様2万石)の武士で、元の名前は「小谷」だといいます。幕末に藩での騒動があった際に別府へと逃げ、そのときに「寉田(つるた、鶴の略字)」を名乗ります。
2代目は道造(曽祖父)、弟が萬吉。この2代目の時に正式に雨冠の「霍田(つるた)」姓をもらったのだといいます。この鶴田姓(霍田)は、当地で多くの小作人を抱えていた別府の庄屋であった霍田武八が与えたと言います。
佐伯藩の小谷家
佐伯地方の四浦村(ようらむら)の小谷家の墓石には、「別府町 鶴田道造 鶴田萬吉建立」と刻まれており、このお墓が道造・萬吉兄弟により建立されたことがわかります。
四浦村の小谷家は、実名を「大谷」といい、幕末の大谷得蔵は、二本指しを許された武士でしたが半農半漁であったようです。半島の突端に住んでいたため、藩より警護を任されていたといいます。
あるとき大谷得蔵は、(何を見つけたかは現在でも不明ながら)”見てはならぬもの”を見てしまい、明治3年(1870年)に45歳で毒殺されるという悲劇に見舞われます。
この大谷得蔵が、4代前の高祖父・兵吉の1つ下で、恐らくは弟であったとされます。
別府での鶴田家
大谷得蔵の死の2年後の明治5年(1872年)、兵吉は13歳だった息子・道造を連れ、故郷を出て別府へと移り住みます。人の住まない海岸沿いの土地を手に入れ、四浦での腕を生かして漁師生活を送ります。
2代目の道造の時代には、別府で知らぬものはいないほどの有力者へとのし上がっていき、そして故郷にお墓を立てたのです。また元西鉄ライオンズで活躍した往年のプロ野球選手稲尾和久の実家も、網元鶴田家の網子のひとりだったといいます。
明治維新後、日清戦争・日露戦争で日本が朝鮮半島へと進出すると、鶴田家は朝鮮半島沖の遠洋漁業にもいち早く乗り出したといいます。大正時代には町名になるほどの有力者となっており、大きな敷地内には、本宅、別宅のほか「二條泉」という名の温泉施設を2つも所有していました。
道造を継いだ3代目・勘一(鶴田真由さんの祖父)の時代、大正7年(1918年)には、遂に網元をやめ旅館業を始めます。別府が温泉街として栄える一方、別府湾の漁業は衰退していきます。
祖父・勘一は議員としても活動しており、旅館を切り盛りしていたのが、祖母にあたる勘一の妻・栄子さんでした。この栄子は裕福な酒問屋に生まれた女性で、少女時代には画家を夢見ていたといいます。一目惚れした勘一は、栄子に熱心にアプローチし、大正8年(1919年)結婚します。
父・鶴田剛司
2人は、4男2女の6人の子に恵まれます。その末っ子・剛司(たけし)が後に鶴田真由さんの父となる人物です。
鶴田(大谷)兵吉 ── 鶴田道造 ── 鶴田勘一 ── 鶴田剛司 ── 鶴田真由さん
かつて画家を目指し、旅館に住まわせた画家とも交流のあった母・栄子の影響を受け、幼い頃から絵に親しんだ剛司でしたが、儲からない画家は目指していなかったといいます。
当時タバコのピース(Peace)の外装デザインをアメリカの著名な工業デザイナーであるレイモンド・ローウィ(Raymond Loewy)が150万円という高額で受注したという話が話題になったこともあり、剛司は工業デザイナーを目指します。
※当時の内閣総理大臣の月給は11万円だった。レイモンド・ローウィはフランス・パリ出身のデザイナーで、主にアメリカ合衆国で活動し「インダストリアルデザインの草分け」として知られる。「口紅から機関車まで」と言われるように様々な分野で活躍した。
鶴田剛司は東京芸術大学を卒業後、三菱電機に工業デザイナーとして務め、鎌倉にあった社宅に住み始めます。
昭和39年(1964年)、剛司は会社から長期出張としてアメリカ・イリノイ工科大学に留学します。学生寮で出会ったのが香港出身の「ティモシー・ロー」でした。この人物は後に登場します。
母方
続いて母方を見ていきましょう。
母方のルーツ
鶴田真由さんの母方のルーツは、三重県桑名市。
森弥一左衛門陳秋(もり つらあき、陳明)が鶴田真由さんの5代前の先祖です。弥一左衛門は桑名藩士・小河内殷秋の長男として生まれ、子供に恵まれなかった伯父の森家を継いでいます。
森家(吉村家)
森弥一左衛門は、御馬廻、横目、御使番、大目付を歴任しており、さらに漢文の句を読む句読師を務めていた人物であったため、桑名藩の公用人(外交官)として、幕末の京都で活躍します。
幕末の桑名藩主は松平定敬でいわゆる高須四兄弟の末弟です。兄の松平容保が京都守護職、弟の松平定敬は京都所司代を務め、2人で動乱の京都守護を任されていました。
この桑名藩主・松平定敬の側近が鶴田真由さんの先祖・森弥一左衛門ということになります。
番組では触れられませんでしたが、森弥一左衛門はあの大政奉還のおりに大胆な行動に出ています。京都政変での最終局面に徳川慶喜が大政奉還を決断し、「大政奉還上表」を旗本・大沢右京大夫基昭に託し、朝廷への呈出を命じます。御所へ参内した大沢が武家伝奉へ呈出しようとした時、一人の人物が現れ「御使の儀は暫時待たるるべし」と差し止めを求めています。この人物が森弥一左衛門です。徳川慶喜公伝. 巻4 – 国立国会図書館デジタルコレクション
森弥一左衛門は親藩(久松松平家)の桑名藩公用人とはいえ、朝廷においては地下人でしかなく、しかも大沢右京大夫は従四位下・侍従、右京大夫の官位も持つ高家旗本。つまり将軍の直臣であり、到底森弥一左衛門が物申せる立場ではありません。義憤に駆られたあまりの行動であったかと思われますが、暴挙というほかなく、どれほどの想いで公用人の務めを果たそうとしていたかが伺い知れます。
大政奉還なると、桑名藩は恭順派と主戦派に分裂しますが、森弥一左衛門は藩主・松平定敬に従って主戦派に属し、上野では彰義隊に参加するも敗走、函館に逃れる藩主に従って仙台から「森常吉」として新撰組に加わり、改役(指揮官)となります。Wikipediaでもこの「森常吉」として登録されています。
新撰組は五稜郭へと追い詰められ遂には降伏、「森常吉」こと森弥一左衛門も新政府軍に捕らえられます。投獄ののち刎首刑に処されますが、武士としては名誉ある死であった切腹を許されます。
森弥一左衛門陳秋は明治2年(1869年)没、享年44。
森弥一左衛門陳秋(陳明)の墓は、現在桑名市の指定文化財「森陳明之墓」となっています。「朝廷は桑名藩より反逆の主謀者を出だせと命じた時、陳明進んで全藩に代わって出頭し、明治2年11月13日東京深川藩邸で死に就いた。」森陳明之墓|桑名市 指定文化財
※なお番組タイトルにある「謎の写真」とは、この森弥一左衛門とともに湿板写真が残っていた芸者風の女性のことですが、結局番組では武家の女性ではないだろうという説を紹介するに留まり、詳細不明とのことでした。
家名断絶となったため、森弥一左衛門の長男・陳義(つらよし)は母の姓である若槻(わかつき、若月)を名乗っています。
陳義の子(森弥一左衛門の孫)が三木太郎(みきたろう)で、断絶した家名「森」を3つの木に分解して名前に残したのだといいます。当時の武士の、家名に対する想いの一端を見ることができます。
三木太郎は吉村家に養子に入り、吉村三木太郎と名乗ることになります。その後明治22年(1889年)に森家は家名再興が許され、陳義の次男が再び森家を名乗っています。
養子に入った吉村家とは桑名藩の家老・吉村宣範(通称は権左衛門)です。(藩主や森弥一左衛門とは違い)恭順派であった吉村宣範は明治新政府への降伏を主張して藩論に大きな影響を及ぼしてしまったことから、藩主松平定敬の命により明治元年(1868年)閏4月、山脇隼太郎正勝および高木貞作に殺害(上意討ち)されてしまいます。
三木太郎が吉村家に養子に入った経緯は明らかになっていませんが、森弥一左衛門の切腹はこの家老・吉村宣範の上意討ちの1年以上後のことですので、恐らく藩主を含む藩の上層部の意向ではなかったかと思われます。
母方の高祖父・村田一郎
鎌倉市由比ガ浜にある割烹旅館「かいひん荘」は、大正13(1924)年に富士製紙社長・村田一郎の別邸として経てられた洋館を改装した建物です。
※現在のオーナーは、村田家とは血縁関係はないそうです。くれぐれもアクセス先にご迷惑のかからないようにお願いします。
この洋館を建てた村田一郎は、吉村三木太郎の義理の父(妻の父)にあたる人物で、鶴田真由さんの高祖父にあたります。この村田一郎の父・甚左衛門の弟が薩摩藩の御用商人であった林徳左衛門。
明治新政府が地券を発行した際、大久保利通より紙の製作を持ちかけられたのが利通とは旧知の間柄であった林徳左衛門で、村田一郎はこの叔父の依頼を受けて17歳でアメリカに渡り、現地で製紙を学ぶことになります。
明治20年(1887年)帰国した村田一郎は、当初は叔父の設立した三田製紙所の副社長となり、その後、富士製紙の設立メンバーのひとりとして副社長に就任しています。明治24年(1891年)には、初代社長・河瀬秀治の跡を継いで富士製紙の2代目社長になっています。※富士製紙は、昭和8年(1933年)に初代王子製紙と合併して消滅している。
母方の曾祖父・吉村三木太郎
吉村三木太郎は実業界でこの村田一郎と知り合い、明治43年(1910年)、村田一郎の四女・静(しず)と結婚します。
村田の後ろ盾を得た吉村三木太郎は、明治43年(1910年)日本の統治下にあった台湾南部の恒春で新たな事業会社「恒春興農社」を設立し、サイザル麻の製造を行います。同社は昭和の初め頃には台湾繊維という企業へと発展し、吉村三木太郎は常務取締役・現地のトップとして活躍しています。
母方の祖父・吉村泰明
吉村三木太郎と静の間には、2男2女の4人の子供が生まれています。長男・吉村泰明(やすあき)が鶴田真由さんの祖父にあたる人物です。
吉村泰明は東京帝国大学理学部を卒業し、商工省の役人として世界各地を飛び回りました。泰明が26歳のときに日中戦争が勃発、重慶での調査を命じられています。
その後吉村泰明は昭和15年(1940年)、新婚の妻・嘉江を伴って香港に駐在しています。この時、日本領事館に務める中国人シウロン・ローと親しくなります。シウロンの息子がティモシー・ロー。父方でも登場した人物です。両家は家族ぐるみの付き合いで、鎌倉の吉村家にも何度か訪れていたといいます。
昭和17年(1942年)、香港から帰国した泰明は、地質調査所の技師に任命されています。当時日本軍は石油確保のために調査員を占領地に派遣しており、泰明はジャワ島への派遣が決まりますが、現地へ向かう船がなく命拾いをしています。
昭和18年(1943年)長女・順(じゅん)が誕生。後に鶴田真由さんの母となる人物です。
森陳秋 ── 若槻(森)陳義 ── 吉村三木太郎 ── 吉村泰明 ── 吉村順 ── 鶴田真由さん
吉村三木太郎が亡くなると、泰明一家は村田一郎が残した鎌倉の土地へと移り住んでいます。
父母の出会い
アメリカ・イリノイ工科大学の留学から帰国した鶴田剛司(鶴田真由さんの父)は、学生寮で知り合ったティモシー・ローから、おなじ鎌倉に住む吉村家(泰明一家)に顔を出し、お土産を渡すよう頼まれます。
連絡を受けて、剛司(真由さんの父)を駅まで迎えに来た順(真由さんの母)が出会い、2人は恋に落ち2年後に結婚します。
昭和45年(1970年)に誕生した長女が女優の鶴田真由さんです。
実はティモシーの父であるシウロン・ローと順の父・吉村泰明には密かな計画があり、それはそれぞれの息子・娘であるティモシーと順を結婚させるというものだったといいます。しかしティモシーは当時まだ結婚は早いと考えていたため、代わりに順にふさわしい人物を探していたのだといいます。
アメリカで鶴田剛司と出会ったティモシーは、剛司が日本の「鎌倉」から来たと聞き、何か運命めいたものを感じたといいます。ティモシーは持っていた順の写真を剛司に見せ、帰国したら会いに行くかと尋ねると剛司は恥ずかしそうにイエスと答えたといいます。
※鶴田真由さんのお母様の吉村順さんもお綺麗な方です。番組では当時のボーイッシュな髪型の順さんの写真が紹介されていました。
父方は佐伯藩から別府に逃れて成功した鶴田家、母方は桑名藩士と薩摩藩御用商人の血を引く吉村家。
その両家が、とある中国人の導きにより出会ったという壮大な物語でした。