ファミリーヒストリーに広末涼子さんが登場していました。
広末涼子さんの故郷は四国・高知市。かつて、市内で有名な金物店だった。しかし、38年前の火事で焼失。ルーツに関わる資料も失った。それが今回、明治時代に開業した店の記録が見つかる。また、母方の祖母は現在94歳。北海道で生まれ育った祖母のルーツが、四国・香川であることも分かった。さらに必見なのは、親戚の家で見つかった涼子さんが幼い時の映像。故郷と家族に支えられた歳月に、涼子さんは涙を浮かべていた。
(NHKファミリーヒストリーより)
父方
まず広末涼子さんの父方を見ていきましょう。
三五郎──常三郎──静一──隆久──忠彦──涼子
高知県高知市にある県下一の繁華街帯屋町商店街に広末さんの父方のルーツがあります。
父方の叔父が跡を継いでおり、現在は3階建ての商業ビルのオーナーで高知県商店街振興組合連合会の理事長を務めています。
広末家は、38年前まで地元で有名な大きな金物店だったといいます。しかし昭和58年(1983年)11月18日に起こった帯屋町の火災で広末金物店は全焼してしまいます。
5代前の先祖、廣末三五郎は江戸末期を生きた人物です。広末家は当時、高知県安芸郡田野町で農家を営んでいたといいます。
高祖父・常三郎
高知市郊外にある常三郎の墓碑には、「安芸郡安田村庄田ノ産 元治元年(1864年)11月15日 西山寅三郎 三男ニ生ル」と書かれていました。
この西山家は安芸郡安田町にルーツがある家系で、住居は現在の安田中学校の一角にあったといいます。屋号”いずかく”。
明治の初め頃、西山家は商売繁盛を願って高知市種崎町に移り住みました。
広末さんの高祖父・常三郎は、この西山家の三男に生まれ、明治26年(1893年)に広末家に養子として迎えられます。そして同年に金物商 広末常三郎商店を立ち上げます。明治26年(1893年)に施行された度量衡法に伴い、常三郎は全国で137番目という早さで販売免許を取得しています。そしてはかりや物差しは飛ぶように売れ、支店を出すほど繁盛しました。
曽祖父・静一(せいいち)
明治26年(1893年)に誕生した次男が、広末さんの曽祖父・静一。
昭和2年(1927年)、34歳の静一は独立して新たに帯屋町で金物店を初めます。もともと帯屋町は武家屋敷でしたが、明治維新で没落して手放されていました。維新後にそこに進出していたのが病院で、その病院街に日曜日に日曜市が出ていたことに目をつけての出店だったといいます。
読みは当たり、大繁盛しました。
大正8年(1919年)に小松拾さんと結婚します。
昭和20年(1945年)7月4日未明、B29による高知大空襲で帯屋町商店街は焼け野原となります。
人々が絶望に打ちひしがれる中、静一はへこたれることなく焼け跡から焼け残りの鍋や釜を掘り出し、ひとり路上に並べて売り出したのです。人通りはなかったのですが、この静一の姿に背を押され、商店街の仲間も路上で店を始めたといいます。
さらにヤミ価が横行した時代において静一は正札の店をつくろうと高知大丸を誘致し、人が集まるようにと映画館の導入にも成功しています。
こうして静一は、帯屋町が商店街として発展する先駆的役割を果たしたのです。
祖父・隆久
静一に昭和2年(1927年)に生まれた次男が広末さんの祖父・隆久です。
もともと父静一は長男の昌三に家を継がせるつもりでしたが、太平洋戦争のさなか、その長男昌三に召集令状が届き、戦地に向かいます。
さらに昭和19年(1944年)には次男・隆久も高知商業を中退し、陸軍の特別幹部候補生になります。隆久は第五航空軍通信隊の一員として、中国大陸に向かいました。
やがて戦争は終結。兄の昌三は昭和20年(1945年)5月、セブ島方面において戦死していました。
昭和20年(1945年)12月、次男隆久が高知に復員してきます。隆久は中国大陸で結核になり、現地で入院したまま終戦を迎えていたのです。こうして広末金物店は次男隆久が継ぐことになりました。
昭和27年(1952年)隆久は佐世子と結婚します。
昭和28年(1953年)には長男幸彦、そして昭和30年(1955年)には次男忠彦が生まれます。この忠彦が広末さんの父にあたる人物です。
隆久は、手広く商売を行い電化商品など4000種類もの商品をあつかうようになります。
横浜の大学に通っていた忠彦は、一人の女性と出会います。これが後に涼子さんの母となる安藤眞弓さんでした。
母方
続いて広末さんの母方を見ていきましょう。
正順──眞弓──涼子
祖父・安藤正順(まさのり)
安藤正順の出身地は長野県塩尻市。
本籍地に向かうと、そこは曹洞宗のお寺、興龍寺でした。正順氏はここで育てられたといいます。
正順氏の父は正順が8歳のときに姿を消し、困った母のむらさんが困っていた所、誰かの世話で興龍寺に預けられたのだといいます。母むらは、隣町松本にあった養蚕技術研究所(片倉普及団)で住み込みの寮母として働いていました。
正順は寺で修行をしながら学校へ通わせてもらっていました。尋常高等小学校を卒業後、農学校に進学しました。やがて、僧侶にはならないと決めます。
昭和13年(1938年)、18歳になった正順は陸軍に志願します。航空通信第一連隊に配属され新京(満洲国の首都)に渡り、その後は高雄、バンコク、ラングーンと転戦しました。
昭和18年(1943年)23歳の時、胸膜炎にかかり帰国を余儀なくされます。正順は病を抱えたまま大阪堺市旭ヶ丘町にあった傷痍軍人大阪職業補導所に入ります。
正順はここで薬品の調合や鉱物の成分含有量を調べる化学分析の技術を学びます。そして終戦を迎えると故郷の塩尻に戻りました。
25歳だった正順は仕事を探しはじめ、昭和電工の塩尻工場に採用されました。そして入社早々、北海道旭川市の旭川工場に転勤を命じられます。そして、工場の事務所でタイピストとして働いていた綾智枝子(あや ちえこ、広末さんの祖母)と出会います。智枝子さんはご存命で横浜で暮らしています。
祖母・綾智枝子
智枝子さんの父である綾彌四郎(広末さんの曽祖父)は、四国香川の出身でした。綾家は、香川県三豊市下高瀬地区で小作人を雇いながら農業をやっていたといいます。
明治24年(1891年)に長男として生まれたのが綾彌四郎。明治44年(1911年)、20歳のときに徴兵されます。大正2年(1913年)、香川善通寺市にあった騎兵第十一連隊に所属しており、装蹄師の資格を取得したことが官報にも記録されています。
大正3年(1914年)、23歳で除隊し実家の農業を継ぎます。
大正7年(1918年)9月14日、大雨で付近にある高瀬川が氾濫し耕作地を奪われた綾彌四郎は、家族を連れて北海道旭川市に移り住みます。当時の旭川は開拓が進み、活気溢れる街で四国からの移住者も多かったといいます。
大正15年(1926年)の地元旭川の新聞には、蹄鉄組合の結成メンバーとして綾彌四郎の名前が見えます。現在、うれしば保育園の建つ辺りに店を開いていたといいます。
この綾家に大正15年(1926年)に生まれたのが、広末さんの祖母・綾智枝子です。
昭和21年(1946年)、20歳の智枝子は地元の昭和電工旭川工場に、タイピストとして入社します。
働きだして間もなく、一人の社員が事務所にやって来ました。それが6歳年上の安藤正順だったのです。2年後に2人は結婚、正順は塩尻から母むらを呼び寄せています。
昭和31年(1956年)に生まれた次女が、広末さんの母である眞弓さんです。
3年後、安藤正順は埼玉の秩父工場に転勤となります。一家は移り住みます。
昭和50年(1975年)には神奈川県横浜市へと移り住んでいます。
母・安藤眞弓
広末さんの母・眞弓さんは、高校卒業後に横浜にある専門学校に進みました。そんなある日、横浜駅前で一人の男性に声をかけられます。
それが、当時横浜の大学に通っていた広末忠彦だったのです。交際を始めて2年、大学を卒業した忠彦は、実家の金物店を兄の幸彦と共に支えることにします。
別れが近づいたことで焦った忠彦は、本人へのプロポーズよりも先に安藤家の両親に結婚の承諾を得たといいます。2年後の昭和54年(1979年)に2人は結婚。眞弓も高知で金物店を継ぐことになったのです。
昭和55年(1980年)に生まれた長女が、広末涼子さんです。
昭和58年(1983年)11月18日に起こった帯屋町の火災で広末金物店は全焼してしまいます。この火災を転機として、2年後に広末家は跡地に商業ビルを建設します。
そして涼子の父・忠彦と母・眞弓は、火事のあと帯屋町商店街で雑貨店を始めます。
小学校の頃から広末さんのかわいさは知れ渡っており、平成6年(1994年)中学2年生のとき応募したCMオーディションに合格します。その後横浜の叔母の家に移り住み、芸能活動をはじめます。
平成22年(2010年)の大河ドラマ「龍馬伝」では、龍馬に心を寄せていた平井加尾役を演じます。
広末さんの地元の名物がよさこい祭り。
昭和29年(1954年)、猛暑で客足が遠のく「夏枯れ」の時期に商店街を盛り上げるために始まったのが第1回はりまやよさこい祭りです。広末さんの曽祖父・広末静一さんも祭りの運営にあたっています。
広末さんは、子供の頃から帯屋町ジュニア隊に参加して踊っていたといいますが、大女優となった今でも帰郷の時期が合えば飛び入りで祭りに参加しています。