高見沢俊彦さんのご先祖

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THE ALFEEのリーダー、高見沢俊彦さんがファミリーヒストリーに登場していました。

14年前に亡くなった父は元教師。今回、父が幼くして両親を亡くし、苦労して教師になった経緯が明らかになる。また、母と結婚したのは召集令状が来てすぐだった。出征前、2人は覚悟して式を挙げていた。その後、父は無事に復員。戦後は教師一筋の人生を送る。さらに、母が自らの人生を記した手記も見つかる。母方のルーツは、「八王子千人同心」という集団につながった。アルフィー結成秘話とともに、激動の歳月を見つめる。

(NHKファミリーヒストリーより)

※高見沢さんの出生名は「髙見澤 俊彦」で、姓ははしご高に旧字体の沢。

 

父方

まず父方を見ていきましょう。

髙見澤銀右衛門銀右衛門(3代目)──銀右衛門(4代目)──栄蔵──栄──俊彦

 

高祖父・3代目髙見澤銀右衛門(ぎんえもん)

※「銀右衛門」は高祖父と同名。高見沢さんの父の兄(叔父)も銀右衛門(おそらく5代目)であり、髙見澤家で代々受け継がれた名前です。

長野県南佐久郡栄村(旧 高野町村)の出身。現在の長野県南佐久郡佐久穂町です。

この高野町村は江戸時代には佐久甲州街道の高野町宿がおかれ、南佐久の中心であり、名主や問屋として「髙見澤」の名がが伝わるといいます。

髙見澤家は大きく、「本屋(もとや)」グループと、「大阪屋(おおさかや)」グループがあり、高見沢さんの先祖は前者の本屋グループに属していたといいます。

この本屋グループの今の当主が高見澤一宏氏。本屋グループの高見沢家は、昭和20年(1945年)頃まで旅館業を営なみ主に商人を泊めていたといいます。この高見澤一宏氏の先祖の万右衛門は、高見沢さんの先祖初代銀右衛門と兄弟であり、1700年代に生まれています。

かつて南佐久の栄村では、明治期に絹の生産をするための養蚕業が盛んであったといいます。この繭商いの仕事

 

曽祖父・4代目髙見澤銀右衛門(ぎんえもん)

文政元年(1818年)11月11日生まれ。

 

祖父・髙見澤栄蔵(えいぞう)

明治6年(1873年)生まれ。

栄蔵は、養蚕農家から繭を仕入れて製糸会社に売る糸繭商を営んでおり、明治37年(1904年)には山梨県北巨摩郡(現、北杜市)にいたことがわかっています。明治時代、ここに製糸場があったのです。

明治37年(1904年)、妻・ケサは病のため亡くなります。

その5年後、明治42年(1909年)に松坂サハと再婚しています。

大正のはじめ、栄蔵一家は東京・西多摩郡五日市町に移り住みます。さらに栄蔵は、大正5年(1916年)には繭の仕事を辞め、西多摩郡菅生村(現、あきる野市)で警察官をしていました。

大正9年(1920年)に妻・サハが38歳で亡くなります。

2年後の大正11年(1922年)、栄蔵は五日市町に暮らす坂本イシと再々婚します。同年に栄の弟・章三が誕生しますが、翌大正12年(1923年)、妻子を残し栄蔵は亡くなります。享年50。

 

父・髙見澤栄(さかえ)

大正3年(1914年)1月22日、五日市町で生まれたのが高見沢さんの父です。

生母・サハが亡くなった時6歳、父・栄蔵が亡くなった時は9歳だったといいます。その後、義理の母であるイシ、腹違いの弟である章三と共に育ったといいます。

昭和4年(1929年)15歳になった栄は、東京・青山師範学校(現在の東京学芸大学)を受験し、教師の道を選びます。栄は、学費や生活費など実家に負担をかけないために、寄宿舎のある師範学校を選んだのです。

当時の師範学校は、卒業後5年間教職に就くことを前提に、授業料は免除されていました。さらに、学費支給として1年間に225円50銭をもらうことができました。

20歳になった栄は、昭和9年(1934年)に青山師範学校を卒業。東京西多摩郡、戸倉尋常高等小学校に赴任し教師の道を歩み始めます。その3年後、今度は東京・荏原区小山尋常小学校(現、品川区小山小学校)へ異動になります。

昭和17年(1942年)28歳になった栄は、昼は小学校で教鞭を取りながら夜間は大学で学ぶことにします。勤務先の近くにあった立正大学専門部高等師範科(現、立正大学)で中学の教員免許取得を目指します。

この頃栄は、義母の弟・坂本米太郎(よねたろう)の家をよく訪ねていました。栄の目当ては、米太郎の長女・坂本久美子。

 

 

母方・坂本家

続いて高見沢の母方です。

坂本文太郎──米太郎──久美子──俊彦

 

曽祖父・坂本文太郎(ぶんたろう)

嘉永元年(1848年)の生まれ。神奈川県西多摩郡小中野(現在の東京都あきる野市)。

明治2年(1869年)、文太郎は本家から独立しています。この時・兄の坂本三郎兵衛(さぶろべえ)と交わした証文が残っています。この本家は、明治に入ると「森田」姓を名乗っています。

これには訳があり、1700年代後半、名主をしていた坂本家に跡継ぎがなく、森田家から勘太郎を養子に迎え入れます。この森田家は八王子千人同心という半農半士の一員でした。

婿入り後の森田勘太郎は、武家としては「森田勘太郎」、名主としては14代坂本三郎兵衛と名乗りを使い分けていたのです。この14代は、千人頭志村組に属しており、剣術理真流を習得していたことがわかります。この「理真流」は、天然理心流ではないかといいます。

この2代後の15代坂本三郎兵衛の長男が16代坂本三郎兵衛を継いだ人物で現在の森田家、16代の弟は高見沢さんの曽祖父・坂本文太郎にあたります。

13代坂本三郎兵衛──14代坂本三郎兵衛(森田勘太郎)──15代坂本三郎兵衛(森田勘蔵)──16代坂本三郎兵衛(森田勘太郎)

慶応4年(1868年)に上野で起きた旧幕府軍と新政府軍との戦いにおいて、八王子千人同心は新政府への恭順を示しました。しかし坂本文太郎は、千人同心の兄と共に旧幕府軍に加勢し上野に向かったといいます。

その後、坂本家も明治~大正にかけて養蚕の仕事に携わります。

 

祖父・坂本米太郎(よねたろう)

明治23年(1890年)、文太郎の次男として生まれたのが高見沢さんの祖父・米太郎。

大正9年(1920年)30歳の米太郎は、近隣の村に住む和知(わち)カメと結婚し、五日市町の実家を飛び出します。

駆け落ちした先は埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市浦和)。結婚と同時期に米太郎は浦和で警察官になります。

 

母・坂本久美子

大正10年(1921年)、米太郎とカメの間に生まれたのが、高見沢さんの母・坂本久美子です。

昭和9年(1934年)、浦和高等女学校に入学。卒業後は代用教員をしていました。

太平洋戦争が始まると、警察官の米太郎の元には親戚がよく集まっていたといいます。その中のひとりに、米太郎の姉イシの義理の息子である髙見澤栄がいました。

戦争は激しくなり、久美子の弟も沖縄で戦死してしまいます。

昭和20年(1945年)5月、そんな髙見澤栄のもとに召集令状が届きます。これを機に栄と久美子は慌ただしく結婚することになりました。栄31歳、久美子23歳の時のことでした。

式後まもなく、栄は横須賀の海兵団へと入ります。衛生兵であったが乗船する船がなく、甲板を磨いていたといいます。そして昭和20年(1945年)8月15日終戦。栄の軍隊生活は2か月で終わり、久美子の元へと帰ってきました。

 

昭和21年(1946年)、長男・淳一が誕生します。そして同年、栄は国語の教師として教職に復帰します。昭和22年(1947年)からは東京北区の北中学で勤務することになります。

昭和29年(1954年)次男・俊彦が誕生します。

 

高見沢俊彦さん

高見沢さんは、昭和42年(1967年)埼玉県蕨市立第一中学校に入学し、音楽とともにのめり込んだのがバスケットボールでした。3年生のときにはキャプテンをまかされています。

昭和45年(1970年)に明治学院高校に進学。ロック音楽にのめり込みます。昭和48年(1973年)明治学院大学に進学し、桜井賢と坂崎幸之助が高校時代から作っていたフォークグループに参加することになります。

THE ALFEE

昭和49年(1974年)「THE ALFEE」としてプロデビュー。デビュー曲「夏しぐれ」は、作詞・松本隆、作編曲・筒美京平でした。これがサッパリ売れませんでした。

翌年にはレコード会社との契約も切れ、自分たちで作詞作曲に取り組み、ライブハウスに出演しと本来デビュー前にやらないといけなかった(桜井賢)ことを必死に取り組みます。

そして昭和54年(1979年)新たなレコード会社と契約し、再デビューを果たします。ライブを中心に活動し、徐々にファンを獲得するようになっていきます。

昭和58年(1983年)8月、遂に武道館でのコンサートを成功させます。同年、シングル「メリーアン」がヒットし、同年末の『第34回NHK紅白歌合戦』への初出場が決まります。

さらに「星空のディスタンス」、「STARSHIP -光を求めて-」などのヒット曲が続き、音楽番組の常連ともなる活躍を見せます。

父・栄は平成19年(2007年)93歳で死去。母・久美子さんは現在も99歳でご存命です(放送当時)。

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