時代の空気という忘れられやすく儚いもの

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以前このブログで、 「BANANA FISH」アニメ化製作発表で感じたこと という拙文を書いた所、思いもよらない反響があって非常に驚きました。

「BANANA FISH」アニメ化製作発表で感じたこと
昔、原作マンガを読んでいた「いちファン」の感想です。 舞台を”現代”のニューヨークに変更したのは、率直に言ってかなり問題ではないかと感じました。 製作発表を受けて、それまで漠然と思っていたことを書き出した拙い内容だったのですが、(当ブログに...

記事を書いたのはまだアニメ放送が始まる前だったので、制作関係者のインタビューで感じた漠然とした不安を書き連ねたものでしたが、一部結構なご批判も頂戴しました。

 

アニメ放送も終わって一段落した今振り返ってみると、結局「アッシュにスマートフォンを持たせたい」という以外の意義は感じなかったし、その改変によって矛盾が生まれてしまったり、また原作にあった素晴らしいものがいくつも失われてしまったなと、個人的には感じました。

アメリカにとって初めての敗戦となったベトナム戦争、アメリカ社会がその痛手から充分に立ち直ることができずに苦しんでいた1980年代。その時代の申し子ともいうべきアッシュ・リンクスという少年の苦悩と、それをとりまく大人たちの織りなすストーリーは、今回のアニメ化でその半分も描けてなかったように感じました。

 

ただ、こうした改変は「BANANA FISH」に限らずよくあることで、例が多すぎて枚挙にいとまがないほどです。

それは特に、実写化では実際に当時のブツがなければ話になりませんし、衣装にしろ小道具にしろ室内の様々な家具や、通り、町並みといったその当時を表すのに必要なモノは、だいたい残っていないことが多いためいちから手作りしなければならないからです。現在世に溢れてる量産品でもない当時のモノを、時代考証しつつ手作りしていくというのは想像を絶する作業で、実写映画(特に邦画)でそのコストを賄うことはかなり難しいことになるのは理解できます。

ではアニメ化ではどうなのでしょうか。資料さえあれば制作できてしまうのがアニメの世界で、過去の世界だけでなく未来の世界、それこそファンタジー世界の描写なんてのもお手の物です。今やハリウッド映画では、手描きではなく全編3DCGによる制作体制へと遷移してしまったようですが、「世の中にないもの」ですらクリエイターの実力さえあれば描き出せてしまうのがアニメの魅力でもあり、真の実力だと思います。

しかし、それでもなおかつ上に上げたように時代改変することも多くあります。それは「描くための資料がない」という理由によるもので、今回の「BANANA FISH」でも同様の理由があるようなことを制作陣がいっていたように思います。

 

こうした「その時代を構成するなにげないモノ」というのは、その時代においては何ということもなくその世界にあふれているもので、その場で生きている人にとっては本当に何気ない、(道具という価値以外に)何の価値も認められないものなのですが、時代が変わればあっという間に見かけなくなってしまうモノでもあります。

例えば昭和ドラマに登場する「黒電話」ですが、今やあの数字が並んだ丸い部分が何を意味するのか、またどういう使い方をするのかすらわからない世代が多くなっています。使ったことがないのですから当然です。それより前の時代になると、例えば「となりのトトロ」に登場する本家にだけあってサツキが借りた電話(2号共電式壁掛電話機)も、今や実際に使った人はほとんどいなくなってきているのではないでしょうか。もう大半の人が使い方すらわからないでしょう。なにせ、まず「電話交換手」という概念から説明が必要になります。

 

「BANANA FISH」アニメ化でも、同様に「なぜベトナム戦争でなければならないのか?」=「なぜ時代改変がダメなのか?」「スマホもたせるくらいいいじゃない」という議論が多くなされていたように思いますし、当ブログに寄せられた批判的ご意見の多くはそれでした。

今の時代においてアメリカは超大国の地位を占めてはいますが、既に一時の勢いは失っており、北朝鮮に対してすら毅然とした態度がなかなか取りづらい現実があります。かつて米ソ対立時の超大国アメリカが、ありあまる資金と物量を注ぎ込んでも負けてしまったベトナム戦争とその影響いうものは、あの時代でしかありえず、今では到底想像もできないものなのです。

原作が連載されたのが1990年代。そして30年経ってアニメ化される際には、その「ありふれていた何気ない時代感覚」というものは、既にくどくどと説明を要するほどの事柄になってしまっていたのです。

 

こうした「原作の描かれた時代背景」というものはとても大事なものであって、それを欠いてしまうことによる悪影響は計り知れないくらい大きなものでもあります。

「となりのトトロ」を新たに制作するとして、「トトロの謎電話が現代の若者には理解できないからスマホを持たせよう。サツキやカンタのファッションが現代のセンスに合わないから時代設定を現代にしよう」などと言い出せば、批判されるのは目に見えています。引っ越してきた姉妹がボロ屋敷に目を輝かせる感覚も、今後時を経るにつれ分かりづらくなっていくでしょう。まっくろくろすけはいなくなる運命だろうと思いますし、そもそもキャッチコピーも「トトロというへんな生きものは、もう日本にはいないのです」に変わってしまうのではないでしょうか。

不思議なもので、宮崎駿監督が生み出してきたいわゆるジブリアニメの時代設定に文句を言う人はあまり見かけません。主人公がスマホを持っていなくても違和感を抱きませんし、ナウシカやラピュタのような誰もその世界を見たことのないファンタジーですら、「ファンタジー」という言葉を知らない子供でもそれを自然と受け入れます。だからそれを理由に改変するということは、かなり制作者の都合によるものなのだと言わざるを得ないだろうと思います。

ネットの発達によってコンテンツが消費される速度はますます早まっており、その制作にかけられる物理的な時間やコストが圧縮されることも理解できます。

しかし、そうして作られた作品はとうていその瞬間にしか価値を持たず、また読者・視聴者にあたえる影響も薄っぺらいものにしかなりえない危険性があると感じます。原作が未だに読者に多大な影響を与え続けているのは、そうした時代に翻弄されながらも力強く生きたアッシュという一人の少年の生き様に強く感銘をうけたためであろうと思われますし、それが時代を改変することで何か矮小化されたのであるとすれば、それはとても残念なことです。

時代の空気というのはこのように移り変わっていくものであって、忘れられやすく儚いものであり、だからこそ大切に扱われるべきことでもあるということを、あらためて感じた出来事でした。

 

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