ファミリーヒストリーにミュージシャンの福山雅治さんが登場していました。
今回もドラマチックな物語がありました。
長崎市出身の福山雅治さん。ルーツをたどると元々は福岡で暮らし、長崎に移り住んだ歳月が明らになる。さらに山口出身だった祖母は、意外な人物とも知り合いだった。そして、見つかったカセットテープ。原爆投下時の祖母と父の様子が詳細に残されていた。福山家が助かったのも、ある理由があったからだった。「偶然が重なり合った先祖たちの出会い。まるで物語の結末が最初から決まっていたかのようだ」と、福山さんは驚いた。
(NHKファミリーヒストリーより)
父方:福山家
まず福山雅治さんの父方を見ていきましょう。
福山茂市 ── 福山敬一 ── 福山明 ── 福山雅治
福山さんは、福岡県柳川市にルーツがあります。福山家は、この地で自動車の販売整備をする福山モータースを営んでいました。しかしそれ以前は別の仕事をしていたといいます。
曽祖父・福山茂市(もいち)
大正13年(1924年)の「柳川商工案内」には「佛具職 出来町福山守一」と記載されています。この福山守一(しゅいち)さんは、福山さんの祖父・敬一の兄にあたる人物です。
福山守一の父が、福山さんの曾祖父にあたる福山茂市です。
明治の初めに仏壇職人になったといいます。かつて柳川では多くの仏壇職人が腕をふるい、人気を博していたのです。
近くにある天満神社には、大正11年(1922年)8月に茂市たちが寄進した灯籠が残っていました。
祖父・福山敬一(けいいち)
明治30年(1897年)に生まれたのが祖父の敬一です。
父の仏壇作りを手伝っていましたが、大正になり敬一が20歳になったころ、転機が訪れます。
敬一は旧海軍へ入り、通信員として朝鮮半島南部の鎮海で勤務しました。鎮海は日露戦争をきっかけに軍港として拓け、多くの日本人が移り住んでいたと言います。
海軍では休日に外泊する制度などもあり、民間人との交流も多かったと言います。
敬一は鎮海の町に繰り出し、ある女性と出会います。
女性の名は「石田久(ひさ)」。これが後に福山さんの父方の祖母となる人物です。
祖母・石田久(ひさ)
父方の祖母、石田久のルーツは、山口県山口市にあります。
明治38年(1905年)、久は石田角治郎の長女として誕生しました。父の角治郎は、もともと滋賀県石部の材木商の息子で、結婚後に妻の実家のある山口に移り住み、商売をしていました。
久は地元の山口高等女学校で学びました。この久の2歳下の弟・憲太郎の友達に、のちの詩人・中原中也がいました。
久は女学校を卒業後に、父・角治郎のしごとの関係で朝鮮半島へ渡ります。絹織物の反物を朝鮮半島の平壌で売り、成功したと言います。
大正10年(1921年)の「平壌商工人名録」には、「土木建築請負業 石田組 石田角治郎」と載っています。商売に成功した角治郎は現地で建築業を初めたのです。
のち石田家は、仕事の拠点を鎮海に移しています。
ある日、久は敬一と出会います。
近所でも評判の美人だった久に対して、敬一は結婚を申し込みます。
その後日本に戻った二人は、大正13年(1924年)に福岡柳川で結婚しました。昭和の初めになると、敬一と久は長崎へと移り住みます。敬一の姉のツタが長崎で暮らしていたためです。
当時長崎は造船の街として発展を続けており、人口も増加していました。昭和13年(1938年)の「長崎県商工人名録」に仏具の項目に敬一の名前が残っています。
父・福山明(あきら)
昭和7年(1932年)、敬一と久の間に生まれた次男が、後に雅治の父となる明(あきら)でした。
昭和16年(1941年)、明が9歳の時に太平洋戦争が勃発します。昭和20年(1945年)になると、長崎もたびたび空襲を受けるようになります。そのため、住宅密集地では延焼を避けるために「建物疎開」を行いました。
福山家も自宅を取り壊され引っ越しを余儀なくされます。新たな住まいは、元の場所から1キロほど離れた稲佐山の麓でした。
そして昭和20年(1945年)8月9日、長崎は原爆の悲劇に見舞われます。久はその日、明を連れて米の配給を受けるために、自宅から歩いて5分ほどの配給所へ向かいます。カンカン照りであったため、久は明を少し離れた木陰で待たせて配給を待ちました。
やがて上空にB29が飛来し、11時2分に市街地上空500mで原爆が炸裂します。2人がいた場所は爆心地からおよそ3キロ離れた場所でした。久は、とっさに近くの溝の中に伏せたためほとんどケガはありませんでした。しかし近くに居たはずの明の姿が見当たらなくなってしまうのです。敬一と久は懸命に探しますが見つかりません。
ところが夕方になって明は戻ってきました。後に明らかになった事実によると、明は近くの防空壕に数時間身を潜めていたのです。
こうして福山家は全員無事だったのですが、これは稲佐山から伸びる丘陵地帯が盾となり、それによって爆風がやや減じられたためであると言います。もし建物疎開していなければ、家族がどうなっていたかわかりません。
6日後に終戦を迎えますが、子供を多く抱えていた福山家も生きていくのに必死でした。
明は中学を卒業すると工場勤めをしますが、20代半ばで父・敬一が営んでいた不動産業「まるふく不動産」の手伝いを始めます。
昭和40年(1965年)、33歳になった明は、近所にあったなじみの駄菓子屋で1人の女性と出会います。山口勝子(かつこ)さん、後に福山さんの母となる人物です。
母方:山口家
続いて福山雅治さんの母方を見ていきましょう。
髙田貞子 ── 山口勝子 ─── 福山雅治
祖母・髙田貞子(さだこ)
山口家のルーツは、柳川の隣町・福岡大川にあります。
貞子は大川で商店を営む髙田元市の長女として、大正11年(1922年)に生まれました。八百屋・酒類を扱う、大川ではトップクラスの繁盛店だっと言います。
昭和18年(1943年)、貞子に縁談が持ち上がります。相手は、遠縁にあたるみかん農家の長男、山口力麿(りきま)でした。
みかん農家の山口家は、大村湾を望む長崎県大草村にありました。
福山さんが平成13年(2001年)に発表した「蜜柑色の夏休み」は、この祖母・貞子さんを歌った曲です。
大草周辺は「伊木力(いきりき)みかん」の産地です。山口家も古くからこの地で農家を営んできました。山の斜面を利用したみかん栽培は重労働でした。
昭和20年(1945年)、第一子が誕生します。これが後に福山さんの母となる勝子でした。
2人にはその後、4人の子供が生まれました。
しかし昭和32年(1957年)、力麿は病に倒れます。若い頃から患っていた腎臓が悪化、40歳という若さで帰らぬ人となりました。
しかし貞子には悲しみに暮れている暇はありませんでした。この時、長女の勝子が12歳、末の子はまだ2歳でした。貞子はみかん農家を続け、女手一つで子どもたちを育てていかねばなりませんでした。
母・山口勝子(かつこ)
母の苦労を見て育った勝子は、手に職をつけようと長崎にある洋裁学校に通い始めます。
当時、稲佐山の麓に叔母が営む駄菓子屋がありました。勝子は、学校帰りに叔母のもとをよく訪ねたといいます。
その店によく出入りしていたのが、近所で不動産屋を営む福山明でした。明の一目惚れだったと言います。
勝子も明るい明の人柄にひかれ、程なくして2人は結婚を決めます。
昭和42年(1967年)、2人は結婚します。明34歳、勝子21歳の時でした。
昭和44年(1969年)、明と勝子の間に次男・雅治が生まれます。
昭和60年(1985年)52歳の時、明は体調を崩し入院します。肺がんでした。
当時、オーダーメードの服を作る仕事をしていた勝子。勤めを終えると毎日、夫の看病に駆けつけました。
昭和60年(1985年)12月、明は10か月の闘病の末に53年の生涯を閉じました。明の死から4年後、明の母・久も亡くなります。
福山雅治
17歳で父を失った雅治、そのころ一心に打ち込んでいたのがギターでした。中学3年の時に兄に誘われてバンドを結成して以来、音楽漬けの日々でした。
高校卒業後、雅治は一旦就職しますが、わずか5ヶ月で退職しプロのミュージシャンを目指して上京を決意します。
上京して半年後オーディションを受けます。雅治は多くの応募者の中から見事合格し、平成2年(1990年)にミュージシャンとしてデビューを果たします。
デビューアルバムの冒頭を飾った「PEACE IN THE PARK」。その歌詞には長崎への思いが込められていました。
そしてデビューから3年後の平成5年(1993年)、5枚目のアルバム「Calling」で初の1位を獲得します。更に、出演したドラマ「ひとつ屋根の下」が大ヒットし、一気にスターダムを駆け上っていきました。同年末の第44回NHK紅白歌合戦に「MELODY」で初出場を果たします。
デビューから10年。遂にふるさと長崎の稲佐山でデビュー10周年記念のライブを行うことができました。
長崎大草、みかんを栽培し女手一つで子供たちを育て上げた母方の祖母・貞子さん。平成20年(2008年)86歳でその生涯を閉じました。
貞子さんが亡くなった翌年発表されたのが「道標」でした。
そして2020年12月、雅治さんは6年8か月ぶり12枚目となるオリジナルアルバム「AKIRA」を発表します。父・明さんの名前を付けたアルバムでした。福山さんはこれで、「20代、30代、40代、50代」の「年齢4年代連続アルバム1位」を達成します。「年齢4年代連続アルバム1位」は、男性ソロアーティスト史上5人目となる記録でした。