昔、原作マンガを読んでいた「いちファン」の感想です。
舞台を”現代”のニューヨークに変更したのは、率直に言ってかなり問題ではないかと感じました。
私自身「BANANA FISH」の熱烈なファンの一人であり、30年を経過した段階でのアニメ化の報に小躍りした一人でもあります。今回の記事への反響は、原作「BANANA FISH」が未だに多くの人々の心を動かす作品であることを感じられた素晴らしい機会でもありました。いうまでもなく私もアニメ制作陣を応援する一人であり、7月開始の放送がどのようなものになるか今から楽しみでなりません。
私の乏しい知識や至らない表現力により、誤解を与えてしまいご批判やご指摘を頂戴しましたが、その中でも「なぜベトナム戦争でなければいけないのか?」について、思う所を末尾に追記いたしました。ご興味のある方だけお読みください。
アニメ放送第一話の感想を書きました。
吉田秋生氏の「BANANA FISH」という作品の魅力は、1980年代のアメリカ社会を(読者がその実像を当時知らなかったとしても)リアリティをもって描いたところにあったのではないかと思います。
そもそも物語の発端が、兵士としてベトナム戦争に送り込まれたアメリカ青年たちの心の逃げ場所として乱用されたドラッグにあります。主人公のアッシュ・リンクスは、そのベトナム帰還兵である兄グリフィンを密かに守るという裏があるからこそ、コルシカ・マフィアのボスであるゴルツィネの男娼になってまで兄を廃人にした”何か”を追いかけるのです。
ストリート・キッズのボスとして君臨するアッシュは、ある日ゴルツィネの指示で殺された男から「BANANA FISH」という言葉とともに、薬を託されます。それは、文字通り廃人となっている兄が時折つぶやく言葉でもありました。
「BANANA FISH」がドラッグであることを突き止めたアッシュは、ゴルツィネがこの「BANANA FISH」を利用することで中米でクーデターを起こし、南米からのヘロインルートを手に入れようという彼の野望に気づいてしまいます。ゴルツィネはアッシュを殺人の冤罪をかぶせて刑務所送りにしてしまいますが、アッシュはそこで兄と同じベトナム帰還兵であるマックス・ロボと出会うのです。
このマックスはベトナムにおいてアッシュの兄グリフィンと同じ部隊に所属していた戦友で、ドラッグにより自我を失ったグリフィンが友軍兵士に向けて自動小銃をぶっ放すのを、足を射撃することで取り押さえた人物です。帰国後マックスはグリフィンとも疎遠となっており、フリージャーナリストとなっていた彼はこの時ルポを書くために刑務所に入っていたのですが、やがてアッシュとともに「BANANA FISH」の謎を追い始めることになります。
なおマックスは、この時奥さんであるジェシカと離婚調停中で、一人息子のマイケルの親権をめぐって争っています。こうした離婚問題を取り上げた映画も、この時代話題になっていました。
ここからアッシュのゴルツィネに対する反抗が開始され、ちょうどカメラマン助手という名目でアメリカへと旅行に来た奥村英二と出会い、大きな影響を受けるのです。
英二は棒高跳びの選手で、インターハイで2位になるほどの実力を持っていましたが、怪我のために飛べなくなり心に深いダメージをおってしまいます。彼を追いかけていたプロカメラマンの伊部は、傷ついた彼をいわば気を紛らわすためにアメリカの取材旅行に同行させたのです。なお作中で英二が幼く見られているのは、一般に西洋人から幼く見られる東洋人であることに加え、幼くして男娼となりそこから実力でストリート・キッズのボスにのし上がったという壮絶な人生を生きてきたアッシュとのあまりにかけ離れた境遇をも反映した言葉なのです。他のグループとの銃撃を交えた抗争で常に命の危険にさらされているアッシュたちストリート・キッズから見れば、スポーツで挫折したことでくよくよ悩んでいる英二が、その外見以上に幼くひ弱に見えたのは仕方ありません。もっとも英二だけが幼かったのではなく、髭を蓄え大人びて見える伊部ですら、ストリート・キッズたちには子供扱いされています。アッシュと英二のどちらが上かと言った話ではなく、育ってきた環境、価値観の相違にすぎません。本作で描かれるのはそうしたものを乗り越えて分かり合えた者同士の友情ですし、物語の後半、年上ながら5歳は若く見える英二はアッシュの精神的支柱となります。
こうして物語の重要な部分に、1980年代のアメリカ社会が抱えていた様々な問題が色濃く反映されており、それが物語の核心であるドラッグ「BANANA FISH」の謎にもつながっていくのです。
この「BANANA FISH」という漫画を支える柱がこの1980年代のアメリカであり、であるからこそ成立している部分も相当部分で存在していると思います。
朝鮮戦争に続いて際限のないまさに泥沼のベトナム戦争を経験し、アメリカ社会は大きく傷つきました。負傷した帰還兵が街に溢れ、ドラッグが横行し、様々な社会問題がクローズアップされた時代でもありました。「BANANA FISH」は、こうした時代背景を元に描かれたからこそ説得力があったのであり、今の時代にマフィアのボスであったり、チャイニーズマフィアであったり、そうしたものを現代の視聴者がリアリティをもって受け入れることができるのかといえば甚だ疑問です。
最近だと学校での銃乱射事件などもあり、未成年の銃所持についても議論がやかましくなっています。また911を通してアメリカ社会は大きく変化しましたし、宗教的な価値観の違いを原因とするテロが世界的に横行し民族間の分断が大きなテーマとなっている現代では、多様な人種で構成されるストリート・キッズや、そうした中で他を圧し君臨する白人美少年というアッシュの設定自体が浮いてしまう可能性も高くなります。
実際問題、作品中には男娼(キッズポルノ)や堕胎、ドラッグ、未成年の喫煙飲酒、銃所持など現代のアニメでは問題になりかねない描写も多数ありますし、そうした設定は変更せざるをえないのは理解できますが、製作発表と同時に行われたメディア向け記事を拝見していると、「作中のファッションセンスが現代に合わないから舞台を現代のニューヨークに変更した」という旨の発言を見かけ、非常に残念な気持ちになりました。どうも監督はこの漫画の内容をあまり理解していないのではないか(もしくはBL的な側面だけを見ていたのではないか)と感じたのです。
現在の概念で言う”BOYS LOVE”はこの作品の主要テーマではありませんし、アッシュと英二が同じベッドで朝を迎えたという場面などを除いて、今風の露骨な性的描写もなかったと記憶しています。アッシュと英二との関係性は、国籍や性格、立場を超えた男性同士の友情であり、そこに性的関係は必須ではありません。むしろゴルツィネと男娼アッシュという関係のほうが衝撃的かつ外せない核心的な設定でもあり、外伝マンガを含めて何度も描写されています。男娼の価値がいかにして決まるのかという細かい描写まで登場します。なぜならそれがアッシュの人格・思想形成に大きな影響を与えており、彼がそれを乗り越える物語でもあるからです。
もし”アッシュ・リンクス”ことアスラン・ジェイド・カーレンリースが現代に生きていたとしたら、マフィアの男娼などにならず、IQ180を超えるというそのずば抜けた知能を活かしてITビジネス起業や仮想通貨を始めとした投資などにより富と名声を得ていたでしょうし、そもそも彼の人生のモチベーションであった「帰還兵で廃人の兄」はいないはずです。マンガで描かれた彼の壮絶な人生は1980年代のアメリカでこそリアリティがあったのであり、そこは外してはいけないと思うのです。
この「BANANA FISH」の理解には、ある短編小説がかかせません。
タイトルにもなっている「BANANA FISH」とは、J・D・サリンジャーという高名な作家の「バナナフィッシュにうってつけの日(A Perfect Day for Bananafish)」という作品に登場する”架空の魚の名前”でもあります。このことはマンガの中でも説明されています。
J・D・サリンジャーといえば「ライ麦畑でつかまえて」が代表作ですが、この「バナナフィッシュにうってつけの日」も短編ながら非常に印象に残る作品です。
「バナナフィッシュにうってつけの日」の中で、主人公シーモアがハネムーン先で出会った少女シビル・カーペンターに話す作り話に”Bananafish”が登場し、このバナナフィッシュという魚はバナナがどっさり入ってる穴の中に泳いで入って行くが、バナナをたくさん食べてしまうために穴から出られなくなり、挙句の果てにバナナ熱という病気にかかり死んでしまうのだと話し聞かせます。この話をしたあと、シーモアは少女を誘って海に泳ぎに行きますが、なぜか少女は、そこで「存在しないはずのバナナフィッシュを見てしまう」のです。シーモアはやがて宿へと戻り、眠っている妻の横で拳銃自殺してしまいます。
作者J・D・サリンジャーは、ポーランド系ユダヤ人の実業家の父と、スコットランド=アイルランド系のカトリック教徒の母の間に生まれたアメリカ人で、1942年の太平洋戦争の勃発を機に自ら志願して陸軍へ入隊しています。訓練を経て2年後にはイギリスに派遣され、あのノルマンディー上陸作戦にも一兵士として参加しています。その後フランスでは情報部隊に所属しますが、やがて精神的に病むようになり、ドイツ降伏後には神経衰弱と診断されニュルンベルクの陸軍総合病院に入院しています。入院中にドイツ人女性医師と知り合い結婚、軍隊も除隊します。その後に発表した作品のひとつが「バナナフィッシュにうってつけの日(A Perfect Day for Bananafish)」なのです。
「BANANA FISH」を描いた吉田秋生氏が、このサリンジャーの作品から何を着想したのかは明らかではありません。しかし、作家自らの戦争体験の傷跡を引きずった物語であることは明らかであり、そこに着想を得た「BANANA FISH」自体、その発端がベトナム戦争にあるということもまた重要なファクターでもあります。バナナ穴へと入ってしまったバナナフィッシュが、バナナを食べ続けてやがて抜けられなくなり、バナナ熱で死に至るというモチーフは(俗語的な説明を端折りますが)、「BANANA FISH」という作品の成立に大きな影響を与えたと想像できます。だからこそ吉田秋生氏は作品名に採用したのではないでしょうか。
こうした時代背景を含めたバックグラウンドを認識するのは面倒なことではありますが、「BANANA FISH」はそれに値する作品であり、またそれが作品をより深く理解することでもあると思います。アニメ作品を広く世の中に訴えかけるために、ビジュアル面での障害をなくしたいという商業面からの都合は理解できなくもありませんが、それは作品の良さ、深さを奪ってしまう諸刃の刃でもあります。
極端な例を出しますが、例えば映画「ニュー・シネマ・パラダイス」を再映画化するとして、少年が空き缶の中に集めたラブシーンフィルムの断片を、映画がデジタル化した現代にそぐわないと言って別の何かに変えてしまえば、あの作品は成り立たなくなってしまうでしょう。火事も起こらなかったでしょうし、過激な映像表現が氾濫する現代ではそもそも「なぜラブシーンがカットされたのか」から説明が必要になります。
「BANANA FISH」は当時、月刊の少女コミック雑誌である「別冊少女コミック」に連載されてはいましたが、しかし作品のテーマ性や内容は少年(男性)が読んでも読み応えのあるもので、そこで描かれた少年同士の出会いと友情は時代を超えたものでした。だからこそ名作という評価を受けているともいえます。
今回のアニメ化にあたり、こうしたことが杞憂に終わることを祈るばかりです。
蛇足ではありますが、このアニメ化で興味を持ちこれから「BANANA FISH」を読んでみようという方には、作品を読むだけではなく同時に1980年代という時代や、当時のアメリカ社会の抱えていた問題にも目を向けて欲しいと切に願います。30年前の作品ですからマンガの表現技法を含めて様々な感覚のズレが生じるでしょうが、「今はこんなんじゃない」と切り捨てるのではなく、なぜ当時はこういう時代だったのかを考える一助にすることができれば、きっとあなたの人生の糧になるはずです。
追記:なぜベトナム戦争でなければダメなのか?
帰還兵なら湾岸戦争やアフガニスタン戦争、イラク戦争でもいるではないか?なぜベトナム戦争とその帰還兵でなければならないのか?それはベトナム戦争が単に「ひとつの戦争」ではなく、アメリカ社会において未だに特殊な戦争だからです。
第二次世界大戦まで自国が戦場とならなかったアメリカは、イギリスに代わり国際政治において圧倒的な支配力を手にすることになります。国内では自動車・家電・音楽・映画など多方面に渡って文化的な興隆を迎え、アメリカ的生活様式を中心としたアメリカ文化は最高潮に達します。
それらが揺らぎ始めたのがベトナム戦争だったのです。テレビ放送普及後の最初の大規模戦争であり、前線への報道規制が敷かれることもなかったため、泥沼化した戦地での悲惨な状況は日々アメリカ本土にも伝えられます。TVニュースで各家庭にまで伝えられる戦争の真実は、アメリカ国民に大きな衝撃を与えることになります。また軍部の説明は北爆は軍事施設のみということでしたが、民間人も無差別に攻撃していることが露見していきます。
アメリカ全土で激しい反戦運動が巻き起こり、ゲリラ戦法に対応できず泥沼化する一方の中、マクナマラ国防長官が辞任し、やがて支持率が最低を記録するとジョンソンは戦争継続方針を転換すると共に次期大統領選挙への不出馬を表明。やがてニクソンが大統領に就任するとベトナムからの撤退を決定します。こうして10年間続いたベトナム戦争は、アメリカがはじめて「政治的勝利を得られなかった戦争」として終結します。
1500億ドル以上にも上った膨大な戦費はアメリカの国力を著しく低下させ、それはニクソン・ショック(ドル固定相場制崩壊・電撃訪中)へとつながり、さらに石油ショックが重なることでアメリカは1970年代に世界市場の25%を失いその国際的地位は低下します。また社会においても、ヒッピーを中心とするカウンターカルチャーの広がりとともにドラッグが蔓延し、歪んだ徴兵制の影響もあって人種間の対立が激化すると共に治安が悪化し、殺人や強姦、強盗などの暴力犯罪が増加します。さらにベトナム帰還兵の間では、戦争への懐疑的な態度とその反発からくるストレス症状により多くの帰還兵に心理的障害が認められ、これによりPTSDの研究が進むことにもなります。
民主主義と自由経済、それらに裏打ちされたアメリカ的な価値観の謳歌と、それを世界中に展開すべきというアメリカ的理想が打ち砕かれたのが、ベトナム戦争だったのです。第二次大戦後に確立した超大国アメリカの地位が大きく揺らいだ時期でもあったのです。
この反動か、1970年代アメリカでは一時的に懐古主義な文化が流行します。Oldiesと呼ばれる所謂アメリカ懐メロのリバイバル(この時の対象は60年代音楽)が起こり、また1973年公開の映画「アメリカン・グラフィティ(American Graffiti)」では”1962年”を舞台にしてある町の青春時代を描いています。この1962年とは、アメリカがベトナム参戦前でまたケネディ暗殺もなくビートルズ訪米(British Invasion)前というアメリカ文化の黄金期を示しています。年代設定だけではなく、劇中で使われる楽曲も1960年前半以前のヒット曲ばかりです。映画は爆発的なヒットとなり、主演俳優たちはその後ハリウッドを代表する俳優や監督となり、ルーカス監督も大富豪になります。打ちひしがれたアメリカでは古き良きアメリカへの郷愁が蔓延するほどあまりにも厳しい現状だったのです。
またニューヨークにおいても、1960年代には公民権運動の高まりで暴動が頻発して治安悪化が進み、1970年代にはどん底の時代を迎えニューヨーク市政は財政破綻寸前まで追い込まれます。1977年に大停電が起こった際には略奪と破壊行為が広がり、逮捕者が3700名を超えるまでに至り、ニューヨークは犯罪都市として広く認知されるようになります。1970年代終盤には100万人もの人口流出が起こり、その後元の人口に戻すのに20年を要しています。1980年代に入るとウォールストリートでは不動産が高騰して失業率も下がり始めますが、治安の悪さと生活水準の低さは依然として残っており、ニューヨーク地下鉄でも車内・駅構内での犯罪が頻発しその悪評は海外にも知れ渡っていました。
こうしてアメリカはベトナム戦争の「後遺症」に長く苦しめられ、再び自信を取り戻すのは1980年代の後半となります。「強いアメリカ」への回帰に成功したアメリカは再び他国への軍事介入を行いますが、以後の戦争では、国際協調下での参戦、兵士のPTSD対策、厳しい報道規制、臆病なほど陸軍を投入しない体制など様々な対策が練られるようになりました。「BANANA FISH」の連載は1985年~1994年ですが、アメリカにとってベトナム戦争はいまだに特殊な戦争なのです。
「Make America Great Again」という標語を掲げ、かつては俳優だったロナルド・レーガンが大統領選挙を勝ち抜いたのは1980年。当時流行っていた映画「スターウォーズ」を思い起こさせるかのようにソ連を「悪の帝国」と指弾、「戦略防衛構想(Strategic Defense Initiative, SDI。スターウォーズ計画)」を掲げて再び強いアメリカを目指し、さらに1984年には東側諸国がボイコットしたロサンゼルス五輪を成功させます。
レーガンの狙いは結果として成功し、財政赤字が膨らんだソ連は1979年から侵攻していたアフガンから撤退。「ソ連のベトナム戦争」とも呼ばれるこの侵攻失敗によりソ連は大きなダメージを受け、最終的に1988年にはソ連解体へと至りました。巨大なライバルを抑え込んだアメリカは、レバノン介入(1982-84)、グレナダ侵攻(1983)、パナマ侵攻(1989-90)、湾岸戦争(1990-91)と他国の紛争に積極的に介入していくようになります。
〔2020年2月追記〕
一言で言えば、そこを舞台にして繰り広げられるアッシュ・リンクスの物語に迫真性を感じられるかどうかが問題であって、可能性の話ではないのです。
現在のニューヨーク地下鉄しか知らない人が、原作で描かれる落書きだらけの地下鉄をどのように感じるのか、そこを舞台に行われたアッシュたちの戦いをどのように感じるのかということです。ルドルフ・ジュリアーニ市長が「割れ窓理論」を実践したおかげで小綺麗になるのは1994年以降の話です。またイラク戦争帰還兵はいますし、その中には不幸にも兄グリフィンのような廃人になった方も居た可能性はありますが、果たしてそれがアメリカ社会に大きな影響を与えるほど多かったのかということでもあります。
レアなケースであればあるほどそれは「アッシュ個人の物語」になってしまい、彼が背負っていたものに共感できる人も少なくなってしまいます。1980年代の荒れたニューヨークという舞台が、この「BANANA FISH」という物語と切り離せないものであることは、当時原作漫画を読んだ多くの方が感じたことではなかったかと思います。
最近またアクセスを頂戴しているようなので、追記しました。
コメント
作品を現代の設定に変更すべきでないという主旨は正しいのだけど、
少年(男性)が読んでも遜色ない〜で少女漫画誌への見下しがでてしまっていたのは残念でしたね
確かにおっしゃる通りで誤解を生む言葉でした。「読み応えのある」と直しておきました。
私は制作発表会見を見ていなかったのですが、Twitterで「話の根本は変えない」という文言が見えた時に一縷の望みを持ち、「時代設定は現代に変更しました」という言葉が流れて来た時に望みは霧散しました。
記事の通りそこはどうしても外せない軸だと思います。
ビジュアルが多少可愛くなっていても仕方ありません。
今の子達の感性に近付ける為でしょうし。
しかし変えてはいけない部分を変えてしまうならばいっその事アニメ化しないで欲しかったというのが原作が好きで読み切った後は2ヶ月は思い出してはズーンと重くのしかかるくらいハマった人間の感想です。
アッシュの天才性やカリスマ性がちゃちいものになったらと想像するだけでも哀しいです。
細かい部分は置いといて、PVの雰囲気は好きでした。
出来れば原作を尊重した作品にしていただきたかったです。
とりあえずまだ一話も観ていないので、観た後この気持ちが変わる事を次は祈ります。
監督が作品の本当のファンという所を感じたいです。
長々と失礼しました。
時代設定はそのままで、服装だけ現代のものに置き換えるという手法でも良かったのではないかと思っています。
なおご存知かと思いますが、製作発表の様子は下記URLで閲覧可能です。
https://www.youtube.com/watch?v=zISjv76YKcQ
当時リアルタイムで読んでいたオールドな漫画オタクです。そこまで入れ込んでいない読者(辛うじて愛読者といえるか……)でしたが、記事の基本は概ね賛同です。
アニメ製作スタッフの告知は一切見ていないのでこちらの記事からの情報だけなのですが、感じからするとスタッフたちは若い層が中心なのでしょうか。だとしたら、当時のアメリカの社会的な背景を単純に「知らないから描けない」だけなのかもしれません。それなら描くなよ、と自分などは思いますが。
(「この世界の片隅に」の映画のように、昔を知らなくても調べ上げて原作の良さをどこまでも掘り下げてアニメ化する若手スタッフもいるので、一概には否定したくありませんが)
80年代、90年代をリアルで生きていた人で、ある程度アンテナを張っていた人(吉田秋生先生はまさにそう)であれば、当時の米合州国のベトナム敗戦のダメージのデカさとそれによる米国社会の変化の大きさは呼吸をするように感じ取っていました。当時、さして社会派ではないアメリカのロックミュージシャンでもベトナム戦争に対しての批判的な歌を軽く歌っちゃうくらい、80年代90年代の米国におけるベトナムの敗戦は大きな出来事でした。
21世紀、911以降の今で、あれに相当するのは恐らくアフガンやイラクでしょうが、こちらは負け戦ではない分、またイスラム教と関わる分、更に問題はややこしく、それをBANANA FISHの世界に置き換えるのは不可能だと思います。アッシュ白人ですし(といっても貧困層ですか)。
一つ、文章に自分が違和感を覚えたのは、
>アッシュと英二が同じベッドで朝を迎えたという場面
これ、別に2人がただ一緒の布団で寝ていたというだけでしたよね。性的関係を匂わせることは何もなかったかと思います。
昔読んだからよく覚えていない上、自分はBL回路を持たないオタクなので、読み落としている可能性もなくはないですが。
ただ、それまでの吉田作品(カリフォルニア物語、吉祥天女、河よりも長く~、等)でも先生はBLに関してはうまーく距離を取っていましたし、確か連載終了後の先生のお話でもその手の話は出ていませんでした。
何より、アッシュと英二の関係性は、性欲による底上げの無い唯一無二性だからこそ意味があり彼らが救い救われるのであって、そこにBL要素を入れちゃうと逆にダメでしょう、と。BL入れたら単純に関係が矮小化されるだけですよ、これ。
監督さんはBL的なところを売りとして商売をなさりたいのかもわかりませんが、そうだとすれば自分のようなオタはまるで相手にしませんし、当時愛読者であった漫画オタの多くはそうなるのではないかと思います。まあその層の財布をあてにしていない可能性も高いですが。当時を知らないお若い腐女子の財布の方が緩いと考えれば、その改悪も可能性として考えられます。
また、それに吉田先生がGOサインを出したのだとしたら、自分も今度は吉田先生は見限ることにしようかと思うくらい、そのくらいこの作品に関してここは外したら駄目な箇所だと思います。
(長文失礼しました)
>別に2人がただ一緒の布団で寝ていたというだけでしたよね。性的関係を匂わせることは何もなかったかと思います。
はい、文中にも書いたつもりですが、私も同様にこの作品からBL的要素を感じ取れなかった一人です。またこういう人も多いかもしれませんが、本作初期の大友克洋氏の影響と思しき線の太い元気なアッシュたちが大好きです。もちろんYASHAなどの繊細な線で描かれるキャラクターたちもまた、同様に吉田秋生氏の魅力だと思っています。
とても感心して読ませていただきました。
隅から隅まで同意見です。
“設定”というものも作品のエッセンスであると思うので、そこを変えるというのは原作に対する(または原作を愛している人々に対する)冒涜だと思えてしまいます。
何が欠けてもバナナフィッシュにはならないと思います。
記事を拝読し、私が制作発表を見た際に疑問に感じたこと全てを代弁していただいたような、そんな感動を覚えています。 ありがとうございます。
追記の「なぜベトナム戦争でなければダメなのか?」も読みました。
激しく同意します。 敢えて、ひとつ強調させていただきたいなと思ったのは、アメリカはその後も多くの戦争をしますが)後の戦争とは大きく違うことの一つに、ベトナム戦争は「徴兵制」が適用された戦争なんですよね。
(「BANANA FISH」で直接そういう表記があったかどうか記憶していませんが)アッシュ兄や彼の周辺の青年兵の多くは、戦争に志願して行った訳ではない。( = 兄が幼いアッシュを置き去りにして行かなければならなかったのは、国からの【強制】)
彼らが心を壊した原因の多くはそこにあったのではと、そう推察しておりました。
「ベトナム戦争」を他の戦争に置き換えたら、原作との大きな差異が生じる。 私も強くそう思います。
監督は『 改変はするのですが基本的にストーリーは原作通りで、時代だけをアップデートした形になります 』(公式インタビュー記事より抜粋)と、おっしゃっていますが、もしも時代背景を変更するならば、ストーリ運びはおろか、主人公や登場人物たちのアイデンティさえ崩れてしまうのではないでしょうか。
さんざん文句をいってしまいましたが、アニメは必ず見ようと思っています。
確かにアメリカでは、ベトナム戦争を最後に徴兵制は廃止されたままで、現在でも「経済的階層に関わらず軍務を国民全員に機会平等に配分すべきである(貧困層の志願率が高くなってしまうため)」という理由で復活していませんね。
このことは当時、貧困層や移民層において金銭的理由や市民権獲得を目的として志願したもの少なからずいたことや、一方で裕福な家庭の子弟が戦地への出兵を回避するために州兵に志願したのではないかという指摘もあるようです。
作中でもカーレンリース家は決して裕福には描かれておらず、父親からひどい言葉を投げかけられるシーンもあったように思います。グリフィンが入隊した理由は書かれていなかったように思いますが、それが強制だったのか、もしくは金銭的理由でやむなく志願したのか、いずれにしろ「プラトーン」のクリス・テイラーのようにアメリカ的理想(悲憤)に燃えての志願ではなかったように思います。
おっしゃる通り、ベトナム戦争のくびきなしにBananaFishは成立しません。現代NYでそれに代替するものをどう描くのか、監督の腕の見せどころではないかと期待しています。BLを匂わすのは、視聴率を取りたいテレビ局のマーケティング戦略でしょう。アッシュと英二の関係性をそのタグに押し込めるのは(原作を読んだことのある人なら)無理とわかるはず。私は、むしろその前振りが誘因となって、BananaFishを知らない人達が原作を読んでくれればいいな、と思ってます。ともあれ期待は募りますね!