舘ひろしさんのご先祖

ファミリーヒストリー
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ファミリーヒストリーに俳優・舘ひろしさんが登場していました。

舘ひろしは名古屋市の出身。徹底取材で4代前の高祖父が、尾張徳川家に仕えていたことが明らかになる。土木技術者だった祖父が設計したアーチ橋が現存していることも判明。若き日の父を知るかつての同僚は「冗談好きで人気の医師だった」と証言する。母の実家は三重県特産の萬古焼の製陶所。母は常に成績トップの才女だった。長男として厳しく育てられたひろしはなぜ芸能の道に進んだのか。今年大学を卒業したひろしの秘蔵映像も。

(NHKファミリーヒストリーより)

 

館さんは19歳で上京するまで、江戸時代に建てられたという愛知県にあった築200年の武家屋敷に暮らしていました。

父方:舘家

舘家はもともと、岐阜県海津市海津町松木にあったといいます。

海津市歴史民俗資料館に海津松木村の舘家の資料が残っています。舘家は当時松木村の有力な庄屋の一つで、永禄5年(1562年)に舘善左エ門が安八郡須脇村から松木村に移ってきたと言います。

初代舘善左エ門─2代善左衛門─3代治左衛門─4代宅左衛門?─5代善左衛門─6代善左衛門─7代善左衛門─8代善左衛門─9代善左衛門─10代善左衛門─11代─

江戸時代を通じて、舘家は庄屋や村役人を務めてきました。

10代以上続いた大地主でしたが、戦後の農地改革で土地を手放すことになり昭和20年(1945年)代にこの地を離れました。

 

海津の館家の晃さんは舘家に養子に入った人物で、岐阜市にある老舗旅館「十八楼」で働いていたと言います。この家に「代々年忌覚帳」(大正拾参年寫)というものが伝わっており、そこには先祖の名前、法名、没年月日が記されています。

天保7年(1836年)7月没の俗名藤左衛門、法名釋(釈)業成という人物が、館さんの実家に残る位牌に記された5代前の藤左ヱ門という人物と俗名・法名・没年月が一致することがわかります。

この藤左衛門の長男が次郎輔、弟が九平治で、この九平治が館さんの高祖父に当たります。

館藤左衛門──九平治──喜三郎──喜八郎──栄一郎──舘ひろし

 

高祖父:九平治(くへじ)

幕末頃の九平治は、海津の舘家を出て名古屋に向かいました。

明治頃の地図を確認すると、館さんの実家のある場所には「御手筒同心(おてづつどうしん)」と書かれています。この”御手筒”とは殿様(尾張徳川家)の鉄砲のことで、御手筒同心とはその鉄砲を管理し殿様の移動に伴って随従する役職であったと言います。

この同心は株で売買されており、昭和40年(1965年)に出版された「下級士族の研究」によれば、海東軍高揚新田に住む館九平治は安政2年(1855年)26歳の時に、御手筒同心の受井清次郎から役職を譲り受けて武士となったことがわかりました。

さらに翌年安政3年(1856年)には、同じ御手筒同心の杉山半左衛門の娘・はると結婚しています。戊辰戦争には殿様の出陣に従って九平治も出兵していました。

明治4年(1871年)尾張藩は廃藩となり愛知県となります。九平治は舘家の組屋敷と妻はるの実家杉山家の組屋敷を合わせた広い土地を愛知県からの払い下げ(購入)により入手していたことも分かりました。

つまり、館さんが幼い頃に済んでいた名古屋の武家屋敷は、元は江戸時代の御手筒同心の組屋敷だったのです。

曽祖父:喜三郎(きさぶろう)、曾祖母:やゑ

明治10年(1877年)実子が居なかった九平治は、岐阜海津の舘家から甥にあたる喜三郎を養子に迎えます。この時、喜三郎は20歳。安政4年(1857年)8月28日の生まれです。

喜三郎は、職に就くことはなかった人物と伝わっています。

祖父:喜八郎(きはちろう)、祖母:志よう

喜三郎の三男が、明治28年(1895年)6月1日生まれの喜八郎。

喜八郎は大正2年(1913年)に名古屋高等工業学校(現、名古屋工業大学建築科)に入学、町づくりがしたいと土木科を選びます。

大正5年(1916年)に卒業した喜八郎は愛知県土木部(愛知県庁土木課)に就職します。

大正11年(1922年)12月~大正14年(1925年)6月まで新城土木工区事務所主幹、つまり事務所のトップとして在籍した記録が残っています。土木構造物としては長良橋、大野橋、玖老勢橋などがあるといいます。

いずれも昭和30年(1955年)代以降に新しい橋に架替えられており、現存はしていません。しかしその後の調査で、喜八郎が設計に携わった橋が愛知県新城市に一つだけ現存していることが分かりました。

黄柳橋(つげばし、旧黄柳橋)がそれです。設計者3名のうちのひとりが喜八郎だったのです。

旧黄柳橋

旧黄柳橋:新城市

この橋の設計者は、愛知県技師館喜八郎氏、吉田仙之丞、和田清三郎氏によって行われた。国内の鉄筋コンクリートアーチ橋は明治37年(1904年)に京都・大岩橋が最初に造られたものであると言われている。大正時代になると、全国的にアーチ橋が建設されるようになり、この三河山間地方でも大正6~8年に多くが架設された。

この黄柳橋のアーチスパン30.3mという長さは、当時として全国第1位であり、昭和2年(1927年)まで破られなかった。言い換えれば、技術史的にこの橋は大正時代の鉄筋コンクリートアーチ橋を代表する建造物であると評価することもできる。

※傍線および強調は引用者による

戦国時代の長篠古戦場のやや東(JR飯田線本長篠駅付近)、宇連川と黄柳川の合流地点からやや南に架かっています。

新城市のページによれば、黄柳橋は最初に架けられたのが明治24年(1891年)、その後大正7年(1918年)に2代目の黄柳橋が鉄筋コンクリート製のオープンアーチ橋としてかけかえられています。この2代目黄柳橋が館さんの祖父が設計に関わった橋になります。その後3代目の黄柳橋がかけられたため2代目は現在歩道橋として利用されています。

この2代目黄柳橋は、技術的な評価や形態的な評価などから大正時代のコンクリートアーチ橋の時代性を色濃く反映した構造形式として高く評価され、平成10年(1998年)9月2日国の登録有形文化財として登録されました。

大正5年(1916年)に高等学校を卒業し、橋の完成が大正7年(1918年)11月なのでおよそ1年半、先輩技師について設計と施工管理をしたのではないかと想定されています。

大正12年(1923年)に長男栄一郎誕生。

この頃喜八郎は、愛知県庁で橋だけではなく道路事業にも関わり、町づくりを進めていきます。

父:栄一郎(えいいちろう)

医師を目指したのは父・喜八郎の意思であったと言います。

昭和17年(1942年)、名古屋大学付属臨時医学専門学校に入学。

「臨時」とは昭和12年(1937年)に日中戦争が始まったため、軍医の養成のために臨時に作られた施設ということです。当時、軍医として戦地に渡る人が多くなっていたため、その分日本国内の医者の数も不足していたことから、この医学専門部は中学校を卒業して4年間修学したのち医師になっていました。大学に行くよりも3年早く医師になるという形になっていたのです。

戦争が激化し、若い医師たちは軍医として戦場に派遣されます。昭和20年(1945年)4月医学専門部3年を終えてすぐ、22歳の栄一郎は海軍に入隊しました。4月15日戸塚海軍衛生学校の補修学生となり、その後佐世保の海兵団へ移動となっています。

栄一郎の軍隊生活は、戦地に赴くことなく4ヶ月で終わりました。

昭和21年(1946年)23歳になった栄一郎は、愛知県南部の南知多病院に勤務することになります。当時、同病院は結核の療養所で、医師の一人として赴任してきたのが館栄一郎でした。

昭和24年(1949年)栄一郎は三重県四日市に住む一人の女性と見合いすることになります。

鈴木初子(はつこ)。 後の館さんの母です。

 

母方:

館さんの母・初子さんは、結婚する際に実家の両親が持たせてくれた焼き物「萬古焼」の急須と茶碗を今でも大切に保管しています。

実家は三重県四日市市で急須などを作る工場だったのです。

曽祖父:末治郎、曾祖母:かめ

萬古焼の仕事を始めたのは、曽祖父の末治郎でした。

酒が大好きな人物だったといいます。

祖父:末吉、祖母:きわ

昭和2年(1927年)長女・きわの夫して萬古職人だった真田末吉を養子に迎えます。

末吉は窯元5軒を束ね「萬古製陶所」という会社を作り、家業を広げました。

 

母:初子(はつこ)

萬古焼の製陶所を営んでいた鈴木家の長女が、昭和2年(1927年)生まれの初子です。

初子は四日市高等女学校(現、四日市高校)で勉強に励みます。学内の成績はずっと1番だったといいます。

初子は、最終学年の1年を勤労奉仕で工場での縫製作業に費やしました。昭和20年(1945年)6月から8月にかけて四日市市は激しい空襲を受け、被災者は5万人に上りました。初子の実家はかろうじて被災を免れました。

昭和19年(1944年)~昭和20年(1945年)にかけて名古屋も激しい空襲を受けます。名古屋に暮らす舘家は、海軍に入隊した栄一郎を除く全員で三重県四日市市で疎開生活を送ることにします。

頼ったのは栄一郎の医学専門部の友人で、四日市出身の平野康平でした。実家の離れを貸してくれました。そんな平野家に戦後和裁を習いに来ていたのが萬古焼の製陶所を営む鈴木家の長女・初子だったのです。

父母の結婚

昭和24年(1949年)2人は結婚します。栄一郎26歳、初子22歳の時のことでした。

翌昭和25年(1950年)3月、長男・廣(ひろし)が誕生します。後の舘ひろしさんです。

長男が廣(ひろし、舘ひろしさん)、次男が啓二(けいじ)、妹が佐和子。

廣が生まれた頃、父・栄一郎は南知多の結核療養所を離れ、愛知県江南市の宮田町診療所に勤務していました。

戦後、舘家は四日市から名古屋に戻ります。

昭和27年(1952年)5月栄一郎の弟・荘平が、肺結核により23歳の若さで亡くなります。荘平の命を救うため、当時高価だった薬(ストレプトマイシン)を土地を手放してまで入手しましたが、2人の息子を医者にするという喜八郎の願いは叶いませんでした。

荘平の死後、栄一郎一家は名古屋の実家に戻ります。父と共に暮らすことにしたのです。新たな勤務先は名古屋市内の総合病院。仕事を終えて帰宅すると医師としての専門性を高めようと論文の執筆にも取り組みました。昭和32年(1957年)、栄一郎は名古屋大学に博士論文を提出。心不全の治療薬ジギタリス剤が心臓の血管に及ぼす影響を実験データを添えて考察しています。

昭和37年(1962年)39歳になった栄一郎は自宅の敷地内に「舘医院」を開業しました。息子・栄一郎が医師として独立したことを喜八郎は喜んだといいます。館さんが中学1年の時だったと言います。

 

昭和40年(1965年)、廣(舘ひろしさん)は開校まもない愛知県立千種高校に進学。ラグビー部に入部します。廣は高校3年の冬、医大を受験するも失敗。翌年も合格することはできませんでした。二浪後、悪い仲間と遊んでいた廣は、仲間とともに東京を目指します。家出でした。

そして翌昭和45年(1970年)、医学部を諦め入学したのは千葉工業大学工学部建築学科でした。在学中、オートバイのグループ「クールス(cools)」を結成します。クールスは評判を呼び、昭和50年(1975年)にレコードデビュー。映画にまで出るようになります。そこで大学に行くことをやめ芸能活動をスタートさせます。

昭和54年(1979年)29歳になった廣は石原プロ制作の刑事ドラマ「西部警察」に出演。その名は全国区になります。4年後の昭和58年(1983年)、石原プロに入社します。渡哲也の存在が決断の理由でした。その後も活躍を続け、トップスターの仲間入りを果たします。現在71歳。日本を代表する俳優の一人として輝き続けています。

 

しかし母・初子さんは芸能生活の不安定さを考え、いつでも大学に戻れるようにと学費を納め続けていました。これは西部警察の終わりの方まで続けていたと言います。

2021年3月22日舘ひろしさんは、かつて在籍していた千葉工業大学から俳優としての功績社会貢献などが評価され卒業証書を授与されました。

母・初子さんは、今年94歳になります。

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