所ジョージさんのご先祖

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ファミリーヒストリーにタレント所ジョージさんが登場していました。

所ジョージが初めて知った両親の激動人生。厳格だった父は53歳で急死。散財家の祖父を反面教師にして育ったという。整備兵として中国で抑留も経験。戦後は警察予備隊にいたが、猛勉強の末、銀行員に。結婚を認めてもらうための転職だった。愛妻家を貫いた父の姿は息子(所)とも重なる。母方の祖父の秘蔵映像も発掘。歌や踊りを披露しながらあめを売っていたことが明らかに。芸能が大好きだった母は歌手を目指す息子を応援した。

(NHKファミリーヒストリーより)

 

父方:角田家

所さんの本名は角田隆之。

父・角田光男は東京都東村山市出身です。

今もいとこにあたる角田英光さんが暮らしています。英光さんの父・覺一(かくいち)は五男四女の8人きょうだいの長男、いっぽう所さんの父・光男は末っ子でした。※二女は早世だと思われます。

英光さんの趣味はプラモデルで、5歳年下の隆之とは、子供の頃から出来栄えを競ってきたと言います。

 

角田家は農家でしたが、周囲が大きな畑を持っているのに対して、小さな畑しか持っていなかったと言います。その理由は祖父にあったのだといいます。

曽祖父:鶴吉

角田家は曽祖父・鶴吉の代までは裕福だったといい、鶴吉は真面目で勤勉な曽祖父は農業のかたわら鍛冶屋をやっていたといいます。

祖父:喜十郎

一人息子の喜十郎は曽祖父とは違い、みんなが泥だらけになって畑仕事をしているところに、カンカン帽にシャツの下にはステテコを履いた着流しのような(小綺麗な)感じで現れる、”銀流し”と呼ばれるタイプの人間だったと言います。

”銀流し”とは、かつて水銀に砥粉(とのこ)をまぜ、銅などの金属にすりつけて銀色に仕上げたことから、見掛け倒しという意味を持っています。

親の金を使って遊びほうける喜十郎は、村でそう揶揄されたのだと言います。

結果、喜十郎は田畑を売るほどまでになり、昭和16年(1941年)に死去しました。

残った8人きょうだいは、母多満(所さんの祖母)が育て、”銀流し”と呼ばれた父を反面教師として育ったと言います。

父:角田光男

大正15年(1926年)に生まれた末っ子が、所さんの父・光男です。

幼い頃から手先が器用で、とりわけ書道が得意だったといいます。

昭和18年(1943年)、16歳になった光男は岐阜陸軍航空整備学校に第14期生として入学しました。

当時、岐阜県各務原には陸軍の飛行場や整備工場などが立ち並ぶ戦闘機の街でした。光男は、計器やレーダーの整備を専門に学びます。実践的な整備の他、航空工学や材料学などをたたき込まれました。

昭和19年(1944年)7月28日、戦争が激化する中、突然光男たち14期生も戦地へ向かうことになりました。2年教育の航空整備学校を1年3か月で修了させられた光男たち。

配属されたのは、第24野戦航空修理廠でした。中国大陸の南京に本部を置き戦闘機の整備を担っていました。当時の南京は日本軍が制圧していました。周辺飛行場から飛び立つ戦闘機は、中国国民党との戦いに臨んでいました。

学徒動員の時代、操縦士も未熟で事故が起こりやすく、飛行機も壊れやすかったと言います。光男たちに与えられた任務は壊れた機体を即座に修理することでした。主に操縦席のメーターやレーダーを担当した光男も、不眠不休で作業にあたったといいます。部品がなければ旋盤を使って自分たちで作り、ネジがなければ溶接してつけてしまうなど、明朝飛びたいという要求にも応えていきます。現地で即座に修理する能力が求められたため、優秀な人材が送り込まれたのです。

整備兵たちが一定の技能を保つため、修理廠では定期的に実技試験が行われていました。防衛省に残る航空修理廠の作業能力調査表が残っており、精密機械を担当する光男の成績は常に「上」だったと残っています。

中国へ渡って1年、昭和20年(1945年)8月13日にマラリアを発症。そのまま終戦を迎え龍潭にある墓地に1万人が抑留されました。各分隊で小屋を立て、そこで暮らしたと言います。

光男たちが開放されたのは昭和21年(1946年)2月23日、鹿児島に上陸し日本の土を踏んだのは3月21日のことでした。

日本に返った光男は、警察予備隊(NPR:ナショナル・ポリス・リザーブ)へと入隊していました。昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が勃発し、剤に米軍が出動したため、日本の警察力を補う目的で設置されました。光男は、整備学校時代の上官に入隊を勧められ、入間の警察予備隊に所属していました。

所さんは、銀行マンで厳格な父であったと言います。しかしそれには訳がありました。

 

母方:吉田家

祖父:定吉

明治30年(1897年)生まれ。吉田家はこの定吉の代に大きな転機を迎えました。

それ以前に住んでいた所沢市神米金では土地を持っており、養蚕や養豚を行うために土地を担保にお金を借りていたところ、失敗して土地を取り上げられ、そこにも住めなくなったのだと言います。

その後定吉は、妻の遠縁を頼り当時5人いた子供をつれて現在の場所へと移り住んだのです。小さな畑を借り再出発しました。さらにお金を稼ぐため、テキ屋のようなこともやっていたといいます。定吉は、埼玉中の祭りや縁日でだんごやかき氷を売り始めます。

縄張り争いで他の露店ともめ、警察が仲裁に入ることもしばしばでした。

露天商を初めた翌年に生まれたのが三女の智江(としえ)。後の隆之の母です。

定吉はその後も80歳ごろまで露天商を続けたといいます。

定吉はアメも売っており、頭の上に盤台(タライのようなもの)を載せて紙の小旗をを並べ、太鼓を鳴らしながら売り歩いたようです。こうした人達は「飴屋」と呼ばれ、関東一円でよくみかけたと言います。太鼓の音で集まった子供に飴を売り、買ってくれた子供には小旗をあげたのです。飴を買ってくれたお礼に客の前で踊りを披露するのが飴屋の流儀といい、埼玉県の生涯教育推進センターにはこの定吉の姿を収めたフィルムも残っていました。

埼玉市史によれば、飴屋は飴を売るだけではなく、歌や踊り、芝居といった芸能活動もするようになり、飴屋仲間が一座を組んで芝居の興行も行ったと言います。市史には定吉の写真も掲載されていました。

母:智江(としえ)

母・智江は埼玉県所沢市出身。生まれ育った実家が残っています。

9人兄弟の三女・吉田智江さんが所さんのお母さんです。

智江は幼少期から定吉に踊りや民謡を習うことが大好きでした。飴屋一座の芝居にも出演していたといいます。

二十歳を過ぎた智江は西東京市にある大手時計メーカー・シチズンに就職します。農家出身でしたが土を触るのは嫌で、会社勤めに憧れを抱いていたといいます。いつも髪の毛をセットして白いスカートをはいて通勤のために駅まで行っていたと言います。

23歳の時、智江は一人の男性と出会います。相手は2歳年上の角田光男。入間の警察予備隊に所属していました。光男の一目ぼれでした。

結婚の挨拶に智江の実家を訪れた光男、定吉が立ちふさがります。

父母の結婚

昭和26年(1951年)、角田光男は25歳、吉田智江は23歳。

2人は結婚の許しをもらうべく智江の実家へ向かいました。ところが話が光男の職業に及ぶと、警察が好きではなかった定吉が大反対します。長年の露天商をしていて、警察にはあまりいい思い出がなかった定吉。「俺は警察が大嫌い。持ち家がないやつには娘はやらん」と言い放ちます。当時光男は、埼玉・入間で警察予備隊の寮暮らしでした。

定吉は完全にへそを曲げてしまい、「絶対に結婚させない」とまで言われてしまった2人は、駆け落ちします。2人は所沢でアパート暮らしを始めました。

光男は潔く警察予備隊を辞め、再就職しようと猛勉強を始めたのです。そのため収入がなくなった光男を智江が支えます。義理の姉フミに頼み、内緒で実家の野菜を分けてもらっていました。

そして光男が猛勉強の末就職したのが銀行でした。昭和27年(1952年)、光男は採用試験に合格し、協和銀行(現、りそな銀行)の大塚支店へと配属されます。

さらに光男は、銀行の給料が出るたびに材木を購入。所沢に借地を見つけ、2歳年上の兄・英一と2人で家を建て始めました。基礎工事は業者に頼みましたが、あとはほとんど光男が立てたと言います。戦時中、整備兵だったその腕が役に立ちました。

警察予備隊から銀行員に。そして家も持った。定吉の条件を2つともクリアしたのです。昭和29年(1954年)、光男と智江は出会いから3年の時を経て晴れて結婚。

翌年、待望の長男が生まれます。名前は隆之。後の所ジョージさんです。3年後には長女・恵子(所さんの妹)が誕生します。

 

単位の取り間違いから大学中退に追い込まれた隆之は芸能界を目指します。当時ダウン・タウン・ブギウギ・バンドで売れていた宇崎竜童に会って前座に起用してもらった隆之は、昭和52年(1977年)「所ジョージ」の芸名でレコードデビューします。「所沢出身の英語っぽい芸名」。これも宇崎さんが名付けてくれました。

昭和55年(1980年)、父・角田光男は肺がんにかかり53歳で急死します。

母・智江さんは、地元埼玉の素人演芸大会への出場は数知れずあり、晩年まで日本舞踊が大好きだったと言います。平成30年(2018年)に90歳でなくなりました。

 

コメント

  1. さなだひであき より:

    警察予備隊は、自衛隊の前身ですが、何故か〝警察〟くくりで語られていたのに違和感を感じました。
    祖父が的屋をやっていたので、警察にもお世話になっていて、あまり良いイメージを持っていなかったんだろう。
    と、若き頃の武勇伝と共に笑いに変えて語られていましたが、
    祖父にとって、警察予備隊は〝警察〟ではなく〝軍隊〟に見えていたのではないでしょうか。
    戦後、間もない時期で厭戦気分も強かったと思われ、戦場に赴く可能性の高い男に(戦死するかも知れない男に)大事に育てた娘はやれない、もしくは、軍人に娘はやれない、と考えるのは自然な親心で、その時代背景や祖父の心中も洞察することなく、笑いに変えて通過していたのには、強い違和感を感じずにはいられません。
    「警察関係者」には嫁にやれない、ではなく、本当は「軍隊関係者」には嫁にやれないではなかったかと、想像しますが、
    それでは、自衛隊は軍隊ではないという建前にも抵触するし、災難救助等で市民権を得た現在の社会状況に合わないと損託し、笑いで誤魔化したのではないかと思います。ミリタリーに詳しい所ジョージが警察嫌いと断定しているのも違和感ですね。見て見ぬふりという感じです。
    真実は故人のみ知るところで、上記も私の想像以外の何物でもありませんが…。

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